「聞いてください、有栖川さん。私きっと、失恋したんです」

 駅のホーム、隣の線に電車が入った。

 近く聞こえるアナウンスからは、ここの路線は現在遅延してる云々、言い訳のように現在起きている事柄を述べている。線路内に人が立ち入った、安全確認をしている、車内トラブル等々。とどのつまりあと10分は電車が現れることはないらしい。私はブラックアウトしたスマートフォンを取り出し、黒い画面を睨みながら前髪を直した。
 こんなことになるのなら、こんなに暇になる時間があるならば、ちゃんと昨日の夜に充電したのに。ちゃんとモバイルバッテリーを持ってきただろうに。もしくは誰かから借りたのに。はたまた、学校の教室で充電したのに――まあ、これはバレたら親に連絡行くし、さすがに出来ないけど。後の祭り、とは綺麗な日本語だと思う。正にその通り。「のにのに」愚痴を零したって何も起こらない。

「君からそんな話が出るなんて意外だ──いや、そう決めつけては良くない。して、それはどんな物語だったんだ?」
「……まあ、そういうことじゃないんですけどね」

 さて、流石に何らかの会話がなければと、私と一緒に最前列に立つ男性に話しかけてはみたが、少し後悔した。別に彼を悪く言うつもりはないが、余計な気を回したかと、自己嫌悪だった。彼・有栖川誉とは親しいわけでもなければ、何かしらのつながりがあるわけでもない。私よりずっと年上だし、学校の関係者でもない。曰く、詩人らしいがテレビに出るほど有名という訳ではなく、ただまあサイン会したり、本が他の言語へ翻訳される程度の認知度の人。
 彼とはただ、たまたま偶然、行動パターンが似ており、図書館だったり、カフェだったり、こうして駅でばったりと会うことが多かったので、自然と私は彼を記憶していたのだ。

 もちろん、今唐突に初めて話しかけたわけではなく、一応ちょっとした切欠があり、こうして他愛のない話程度ならば話すような仲になった。有栖川誉は派手な見かけ以上に、中身の方がもっと変だった。人の本心や性格を可視化出来るのならば、きっと誰よりもカラフルできらびやかなのだろう。いや、だからこそのこの格好なのだろうか。私だったら柄物に柄物の服は合わせられない。

 少し歯切れの悪い言い方をすると、有栖川さんはきょとんとした顔をするが、気にせず私は続けた。「ずっと、だったんですよ。言葉にするならそれかなと思いました」

 もしかしたら、こんな抽象的な話、私の妄想かもしれないのに、有栖川さんは真面目に考える。その様子は格好いいとは思うが、進路や何やで最近じわりと少々遅い反抗期の頭角を見せてきた生意気な私は、そんなこときっと、一生彼に言うことはない。

「まるでそれは人ではなく、何か、そう、物や事柄が相手のようだね」
「さすがです。もう言うことはなくなりました」
「それは嘘だろう」

 有栖川さんは指を口元へ運ぶ。「言いたいことがなければ口は開かないものだよ」

「………思ってもない事を言うこともありますよね」
「それは『思ってないことを言いたい』時だね。人の言動は全て説明が行くものさ」
「じゃあ、今有栖川さんが口に指置いてるのは何故ですか?」
「これは癖みたいなものだが、……まあ、君に一つ言いたいと身体で主張をしてるんじゃないかな」

 彼は時たま、学校の先生よりもずっと、先生のような顔をする時がある。有栖川さんと歳がかなり違うのだから、そんじょそこらの女子高生である私なんかと比べたらよっぽど大人だろうけれど、大抵がちゃらんぽらんな事を言うことが多いのでギャップで更にそう感じているのかもしれないが。
 そんな違いさえ受けとめられなくて、思わずため息をつく。

「どうしたんだい?」
「いや……やっぱり有栖川さんは大人だなって。一回り違うとこうなんですね」
「……くん、何度も言ってきたが君と『一回り』ではない、10だ」
「一回りって12年なんでしたっけ?ほぼ同じじゃないですか」
「一回りならば君は今高校1年生だろう、そう考えると大きい差だと思わないかい?」
「………確かにそうかもですね」

 納得したというよりは、有栖川さんの剣幕に気圧された、というのが正しいが、私はもうコレ以上はいいだろうというように何度も頷いて見せた。
 高校1年生。その単語を舌で転がすように、私は思考した。ずっと1年生だったらもっと、気楽にいられた。希望していた進路を高校3年の夏に突然却下されるなんて未来なんて知らないのだから。金がかかるなんて、初めから知っていただろうに。(いや、もちろん、)

「そういえば、」

 有栖川さんが私を見た。嫌な予感がする。この人は変なところが目ざとい。

「もう楽譜は持ち歩かないのかい?」
「…………持ってますよ。でも、荷物は鞄の中に入れるものです」と、私は肩にかけているスクールバッグに目をやるよう、下を向いた。
「君はこんな待ち時間でも楽譜を見ていたじゃないか」
「もう、駄目になったんですよ」

 第一志望だった音大は金がかかる。親に散々言われた。そんなの分かっていたことだ。設備に維持費に。普通の、ごくごく普通の専門的じゃない大学よりよっぽど金がかかるなんて、誰だって知っている話だ。それなのに今更そんな事言われても簡単に納得はできない。先生にも、そうかもしれない、なんて濁した言葉を言われたけれど、そんな嘘、分かってる。そんなにバカじゃないんだ。

「私、才能、ないので、ピアノに、振られたんです」

 声を震わせず言えたのは褒めて欲しい。


「何がいい?ここは何でも揃っているよ。王道なところでダージリン、アッサム、アールグレイだが、ここにはマイナーなものもある。ウダプッセラワ、ディンブラ、ルフナ……君は何で紅茶を飲むんだい?」
「あの、私帰りたいんですけど」
「それは聞き入れられないオーダーだね。君が話しかけてきたのだろう」

 あの後、想像よりすぐ電車は来たのだが「それじゃあ仕方ないね」と、降りる駅を指定され、そこを降りると大通りから少し外れた路地にある個人経営のような喫茶店へ案内された。客はちらほらと見かけるが、どれも一人客で、店内にはラジオの音でいっぱいだった。

「それは……暇だったからですよ、それが理由です」
「なるほど、それが君の言い分だとしても、ワタシには一つの切欠にしか思えないよ」
「切欠?それは行動の説明にはならないんですか?」
「ああ、本質は更に深くにあると思ってるよ」

 中々注文を決めない私に痺れを切らしたのか、有栖川さんは店員を呼ぶと、先程上げたものではない銘柄の紅茶を注文した。雑誌やテレビなどでよく言われていることを今実感した。こういう食なり何なりにプライドや知識を持っている男ほど厄介で面倒なものはない。

「して、」

 有栖川さんは私に向き直した。

「君はどうして失恋なんて言ったんだ?」
「いや、だから、」
「何を『失恋』と名前付けることになったんだい?」
「………どういう意味ですか?」

 彼は決して頭なしな訳ではない。お喋りなように思えるが、実際は必要なことしか言っていないだろう。常に冷静に見ている人だと思っているからこそ、有栖川さんのまるで私を宥めるような口調に苛立ちを感じた。まあそれも、この時期だからきっと、仕方ない。彼が私の態度をどう思っているかなんて知らないが嫌なら終わりでもいい。

「君はピアノの道を閉ざされた」
「………ええ、まあ」
「それでも、腕は動く、楽譜は読める。どうしてピアノが弾けないんだい」
「学校に行けないんです、音大」
「……つまりは学校に行けないと楽器が弾けないと?」

 私はカッと頭に血が上るのを感じた。有栖川さんは正しい事を言っているのは分かるどこでだって演奏は出来る。免許があるわけでもなければ、演奏自体に許可が必要とされている訳じゃない。高いがいくらでも買うことは出来る。しかし、出来たところで何だと言うのだ。
 今、脳を巡るのは全て暴言だった。お前に何が分かる、とそう言えたらいいのだが、私の最後の理性がそれを止めた。パクパクと動かすだけの口に、ゆっくりと空気を入れて、私は彼を睨んだ。

「あなたの次に言うことは分かりました。どうせ「学校に行ってもピアニストに成れる訳じゃない」ですよね?」
「それは……」有栖川さんは珍しく口ごもった。
「分かってますよ、分かってる。どーせ進んだって実際にアーティストになれるかなんてごく僅かであって、全員では勿論ない。けど、夢見たっていいじゃないですか。4年間の夢見させてもらったっていいじゃないですか。分かってますよ、私なんて今別れるか、4年後、やっぱ駄目だったねって言われる二択しかないってことくらい」

 一息ついたところ、店員さんが気まずそうにティーカップを運んだ。さすがに他の人が視界に入っている中、続ける気になれなくて、視線を手元に落とした。

 言ってやった、という気持ちと、言ってしまった、という気持ちが混ざる。自分の中にずっと溜め込んでいたものだ。私は誰よりも演奏が上手い、なんて、せめてそんな自意識があれば良かったのだが、劣等感を抱いてしまうと後はもう転がるだけだ。転がった底で見上げた空は、あまりにも綺麗で遠かった。まるで海の底まで潜ってしまったかのように、私の居場所は息苦しかったのだ。井の中の蛙。綺麗で残酷な言葉。

 店員さんが去った所で、チラと、有栖川さんを見ると、またしても珍しく、言葉に悩んでいる顔をしていた。

「……親からは、やっぱり音大は金がかかると言われたんです」
「…………君のご両親は優しいのだね」
「ええ、そうだと思います。私のせいじゃなくて、親のせいにして恨んで欲しいんでしょうね。……私は素直な人間じゃないので無理ですけど」
くん、君も優しい人間だ」
「……私、ですか?」

 透き通った紅茶の水面に、私は一つ角砂糖を落とした。外がこんなに熱いのに、ホットの紅茶を頼む精神はよく分からなかったが、冷えた店内ではこの暖かさが丁度いいのかもしれない。コツコツと、角砂糖をスプーンで突くとじわりじわりと溶けていく。

「ああ、誰かのせいにするのは簡単だよ。だけど、君はそれをしない」
「それは優しさじゃないです。……悔しいからですよ」
「そうかもしれない。だけど、人はいくらでも卑屈になれるものだよ。君はずっと自分自身しか責めていないように感じられるね」
「他を責めても時間の無駄なんです」
「では聞くが、」

 またしても続きの言葉が想像付く。

「自分を責めるのは時間の無駄ではないと?」

 今度は頭に血が上らなかった。いや、多少は来たかもしれないけれど、どちらかといえば、気持ちは全てため息に変わるようで、長い呼吸がしたくて仕方なかった。だって、ここは海底で、息苦しいのだから。

「ええ、まあ、そうですね、時間の無駄です。逆に聞きますけど、有栖川さんならすぐ考えを変えられますか?……いや、出来るんでしょうね。いつだって合理的ですし」
「………ワタシだって全て簡単に片付けられる訳じゃない」
「そう、ですかね。良いものも悪いものも、有栖川さんなら割り切れそうですけど」

 有栖川さんは分かりやすいタイプだ。表情豊かだからこそ、感情がすぐ顔に出る。今だって、傷ついた顔。さすがにそんな表情をされるとは思っていなかったから、私は少し後悔した。そういう所を踏まえて、彼はハッキリした人間だと思っていたのに。しかし、裏を返せばそれはまるで無感情だというように、私は言葉を投げつけてしまった。彼ほど感情豊かな人はいないだろうに。

「……すみません、知らずに物を言いました」
「…………自分の感情はともかく、人の感情には疎くてね、君には君にしか分からないことだってあるのは考えているつもりなんだが、ね……」

 いつもみたいにヘラヘラ笑えばいいだろうに、静かに声を吐き出す有栖川さんを見てるとイライラした。これはきっと、私に。「分からないのは当然ですよ、話してないですもん」

「話してないことまで見透かされたら気持ち悪いだけですよ」
「……気持ち悪い、か」
「正直、釈然としないですけど今回、有栖川さんと話せて良かったです」

 斜に構えたお礼の仕方だったと、自覚はある。強制とは言えど、そもそもこんな相談の態度、有栖川さんじゃなきゃ帰ってしまっているだろう。いや、帰ってくれても良かったんだけど、そこで中断してしまっていたら、きっとこの問題はずっと心に残っていた。片付けられないしこりとして、ずっと残っていただろう。

 急にプラス思考になった私の態度に、有栖川さんは少々困惑した表情を浮かべていた。

「君の中に答えはあると思っていたが、……それでいいのかい?」
「はい。私は多分話して聞いてほしかっただけだったと思うんで」
「余計なお世話かもしれないし、ワタシの勘違いかもしれないが、」今更何を迷うことがあるのか、一呼吸置いた。「今の君はとても明るい表情をしているよ」
「……じゃあ、解決したんでしょうね」

 口に出すと簡単だが、そう納得出来るものではない。けれど、どこか前進した気持ちが溢れていた。「ありがとうございました」今後はちゃんと、嫌味もなく素直に礼が言えただろう。

「いや、ワタシは何もしてないよ。全て君が自分自身と見つけた答えなんだろう」
「それでも、有栖川さんが聞いてくれなかったら、多分ずっと塞ぎ込んでました。こういう話ってみんな同調しかしてくれなくて……まあ、それも嬉しいんですけどね」
「………そうかい」彼は微笑んだ。「ワタシも、君の蓋を空けられて良かったよ」

 有栖川さんは責めた口調をしている訳じゃなかったことはわかってる。全部確認するように紐解いていただけで、今思えば、どうしてあんなに喧嘩腰だったのか分からない。思春期というものは難しいかもしれないな、と他人事のように思ったが、それに付き合えた彼にひっそりと、感謝をした。

「かえって、諦められないって事が分かっただけですけど」
「………音楽学校の件かい?」
「いや、音楽です。学校に行けないならもういいですけど、学校に通ってなくても、何でも出来ます。そうなんでしょう?」
「――ああ、当然さ」
「コンクールとか、コンサートとは無縁になるかもしれないですけど、もっと違う形でも関われるんじゃないかって、そういうコネ作りもいいかな……」

 最後の方はほとんど独り言だった。とはいえ、思考を巡らせると止まらない。ああしてみよう、こうしてみよう、色んな事が浮かぶ。ある意味そういうコネクションを広げる手として、学校の先生を使うのも一つだとは思うが、何も音楽の全てが全て、学校関係で繋がっている訳じゃない。楽器を取り上げられない限りは、私の世界は続いていくんだ。

「………もし、の話になるが」

 ブツブツ考え始めた私の思考を止める声が聞こえた。

「付随音楽に興味はあるかい?」
「付随……?有栖川さん、まさか舞台でもやってたんですか?」
「縁があってね」
「……付随音楽はそこまで考えたことはないですが、……有名な所で言うなら、」

 適当に言ってしまったことが当たったようで、私のささやかな疑問は流されてしまった。確かにビロードウェイは隣町にはあるが、まさかこんな人まで演劇をしていたなんて、と思う反面、なんとなく、納得してしまう。こんな個性の塊、舞台映えするだろう。他にどんな人がいるかなんて知らないけれど、ステージにあがる彼の姿はこんなにも簡単に想像出来るのだから。

「夏の夜の夢!メンデルスゾーンの結婚行進曲ですね」
「……それの元は知っているかね?」
「………えーと、シェイクスピアですよね」

 正直内容は知らない、まで言おうとしたが、満足げな有栖川さんの表情を見ると、思わず口が閉じた。そういえば、前に図書館で会った時にシェイクスピアの本を勧められていた記憶がフと蘇る。

「そこで、まだまだ音楽を変えられると思っていた所なんだ。まだあまり規模の大きい所ではないので謝礼程度しか出すことは出来ないだろうが、今度劇団を見に来ないかい?」
「……有栖川さんのいる劇団って敷居が高そうで……」
「いや、気軽に入れる所だと思っているよ。とても居心地がいい」
「………じゃあ、見学だけ、最初いいですか?」

 とはいえ、有栖川さんが責任者な訳ではないだろうから、こんな子供の私が行った所で断られる可能性は非常にある。物事はこんなにトントン拍子では進まない。わかっている。分かってはいるのに、まるで光が見えたかのように嬉しくて仕方がない。早く次のページを捲りたくて仕方がない話を読んでいるよう。

「勿論だよ。今からでも来るかい?監督くんにはワタシから話をつけておこう」
「え、今、えっと………」
「……どうかしたかい?」

 ああ、やっぱり、一生、私の気持ちなんて分からなくていい。分かられたらきっと、こんな花咲いた気持ちがバレたらきっと、恥ずかしいもん。

「いや、えっと、昨日、充電忘れてて良かったって、思っただけです」

ノック音を思い出して