「アハァ、尽ちゃんじゃん。ちょーうける」

 何一つ面白い事などないと思うのに、彼女、はケラケラとコップを持ちながら笑った。俺がここに居ることは何の問題もない。ただ自分の家に帰ってきたのだ。寮生活をしているのが常だから少しだけ面倒な手続きをし、ただ、自身の家であるこの旅館に帰ってきただけ。家主の息子である俺がここにいる事は何らおかしいことはなく、どちらかと言えばただ親戚なだけの彼女が、普段は客に提供する部屋でこうして夜だというのに障子を全開にし、月を見ながら浴衣で一人酒盛りをしていることの方がおかしいのだ。

 頬は赤く染まり上がっているし、この口調だし、ゴミ袋いっぱいに入っている缶チューハイを見るに、そこそこの時間から飲んでいたのだろう。夜とはいえ、まだ八時なのだが。

 戻ってきたとは聞いていたが、まさかこんなに出来上がっている状態だとは予想してなかった――いや、少しはしていたけれど――オレはため息をつきながら、盆に乗った酒と食事を運んだ。

「お!やったね。丁度切れてたんだあ。――それは?」と食事を刺す。
「オレの夕飯だ。ここで食べる」
「アハハァ、酒飲んでてごめんねー。飲む?」
「飲むわけないだろう」
「ああ、スポーツマンシップかあ……アハハハハハ!」

 こうして説明していると、まるでは駄目人間の象徴のような言い方になってしまっていたが、そういう訳ではない。ただの大学生が休みを利用して地元に帰ってきているだけだ。

 それがどうして彼女自身の実家に帰る訳でもなくうちの旅館なのかは、少しばかり、というより思いっきりうちの親とが仲良いせいか。
 の家はここから徒歩で30分程度の所にある。親と喧嘩したとか、兄弟喧嘩しただとか、そういうつまらない言い争いの末に逃げ込むのはいつだってうちの旅館だった。親も親でオレには厳しい癖に、女の子はやはり可愛いと思ってしまうのか、なかなか甘かった。いつだって来ていいと廊下の隅で小さくなっているの頭を撫でていたし、その側にいるオレには洗い物の汚れが落ちてないと怒鳴っていた。世の中理不尽である。

「……大学生はもう春休みなんだったか」
「うん。テストは先週まで~」

 オレに回ってくる食事というものは所謂賄いというものではあるが、一応ここも老舗旅館。味には自信があるだろうし、実際オレは好きだ。今日の余りは鶏だったようで、彩りとしては少々地味だがいい匂いのする焼鶏丼だった。丁度空腹だと訴えるこの体には丁度良い。割り箸を割るとふとからの視線が気になった。

「何だ?食べたいのか?」
「いんや、尽ちゃんが食べてるの見てるだけでいーよ」
「……まあ、やらんがな!」

 そう言うと、は先程の豪快な笑い声はどこにやったのか、静かに笑んだ。

 とオレは従姉弟だ。の方がオレよりも3つ上で、今は大学3年生。近場に住んでいる事もあり、小学も中学もが通った学校にオレが通っていたのだが、3つ離れているとなると、丁度入れ違いになっていた。一緒にいた期間と言うのは小学の1年生から3年生までというほとんど記憶にない時期だけで、あとは全て彼女はまるで幻のようにオレの前から消える。今オレが通っている箱根学園にだってという生徒は存在したはずだというのに、学園のどこにも彼女の影なんてないのだ。

「尽ちゃんは今高3だっけ」
「……さすがに忘れられてるとは思ってなかったぞ」
「え?違う違う、ちょっと確認だよ~」

 オレは覚えてたのに、とは言わない。

「20まであと2年かあ。尽ちゃんの誕生日に一緒にお酒飲むのは私なんだから取っておいてね」
「予定が埋まらなければ考えておこう」
「ええーー?尽ちゃんって意外と人気者だからそれは困ったなあ」
「フハハ。なんてたってオレは東堂尽八様だからな!」
「そっかーそうだよねー……。うーん、残念だ」

 面と向かって断った訳ではないのに、この話はもう終わりというようには視線を窓の外に向けた。つられて俺も外を見るが、何も面白い風景が広がっている訳でもなく、やはり月が見えるだけで。暖房は入っているがこうして障子が開いているとなると隙間風が冷たい。

「……尽ちゃん」
「何だ」
「やっぱりちょっと欲しいなあ」

 あーん。と口を開けたので、仕方なしにオレはへと一口分を運ぶ。と、襖の向こうから小さくノックが聞こえた。
 何もこの部屋にいるのは見知らぬ客人という訳ではないないだろうに。オレはそちらへ向かい、開けるとそこにはまだ見慣れない従業員がパンパンなスーパーの袋を抱えていた。少しばかり緊張した顔をしていた彼だったがオレが出た事で少しホッとしたような顔をした。

「あ、尽八さん……。これ、様とどうぞ」
「……何だコレは?」
「いえ、女将からとの事らしいです」

 中には色とりどりカラフルなお菓子やノンアルコールのジュースが入っていた。幾らなんでも親はに甘くないか?こいつは客室一室を占領しているんだぞ?に対して特に恨みなどはないが、親のこの贔屓具合にはさすがに腹は立つ。オレは首を傾げながら受け取ると、襖を閉めた。

「どしたの」
「母さんから、だそうだ」
「……あー……なるほど。こうなったか」

 オレから受け取った袋を覗きこむは合点がいったようで一人ごちた。「私、今日泊まりに来たんだよね」

「……まあ、そうだろうな」
「ううん、なんていうかそうじゃなくて、普通にお客さんなの。お金払ってて」
「は?何故そんな事をした?お前だったら当日でも案内してもらえただろう」
「それがちょっと申し訳なくてさ」

 気がつけばのテンションは落ち着いていた。先ほどまで小さな事でもケラケラ笑っていたが今は静かで、それでも底なしだというのか手には酒を持ったままだ。平均的な飲酒量など知らないが、確実にの摂取量は度を超えているのだろう。そもそも水だったとしてもこの量を飲むのはキツい。

「最近ネット予約出来るようになったからそれで、さ。あ!でも、さすがに忙しかったりとかしたら当日に行ってかンなり気まずい事になりそうかな~とか思ったから前日に電話したよ!」

 この部屋は部屋のランクとしては普通で、ここが埋まる日というのは確かに混んでいる時ではある。

 ここはの部屋だった。と言ってしまえば語弊しかないだろうが、が泊まりに来るときはいつもこの客室では一番端っこのここを通していた。最初は特に意味もなく、だっただろうが、気がつけばそれが習慣化していたし、今日だってがいると聞いてとくに部屋の確認もせずにここにやってきた。

 自分自身の部屋のように使えるこの客室をはいたく気に入っていた。その為、ここから一番綺麗に外が見られると言ったのは確か小さい頃の彼女で、その横で掃除をしていたオレはつい信じてしまったけれど、そんなのはただの気のせいだろう。それを知ったのは随分後になってからだったが。

「で、お金は何事もなく受け取ってもらえたんだけど、さっきから食べ物のサービスいいんだよね」

 夜になったら何かを買おうと思っていたらしく、が持ち込んだものは着替え以外殆ど何もなかったという。つまり最早ゴミ袋となっている缶チューハイ入れも、脇にあるワインもそれから先ほどオレが持ち込んだ酒も全て宿泊代から出したのだろう。こんな事するくらいなら金なんて受け取らずに普通に接客すればいいのに、と思った。

「まあ今日は暇な日らしいからな」
「良かった~やっぱ2月のこの時期だよね。人が少ないのって。大浴場も本当快適だったな~」

「夕方に行ったからそりゃ人がいなくて当然なんだけどさ」とは少しだけはだけた浴衣を締め直した。

「もう入ってたのか」
「そりゃね。お酒入れちゃったら入れなくなっちゃうし。暖かくなるとアルコールが回りやすくなっちゃうんだって」
「さっきも相当回ってたように見えたが」
「アハハァ、まあそういうノリってあると思うよ」は先程の袋からお茶を取り出して開けた。「実際、呂律が回らなくなる事はあるけど、私、酔わないし」
「……酔っぱらいは皆そういうぞ」
「確かに!尽ちゃんはやっぱり頭いいね!」

 実際問題、歳の差の都合上仕方ないことだが、オレはに勉強を教えてもらう側ではあった。その時からは褒める時には「尽ちゃんは頭良いね」という至極単純な言葉を使っていたのだが、まさかまた聞くことになるとは。オレはから視線を逸らした。少しだけ気恥ずかしい。昔は今よりもずっとずっとおめでたいほど真っ直ぐだったオレはそれに疑問を感じることなく信じたし、励みになっていた。という、どうでもいい思い出。

「まあ、貰ったからには飲んで食べよう!尽ちゃんはもうお腹いっぱいだったりする?」
「まさか。自転車乗りはよく食べるぞ」
「アハハ!――あ、すごいよく分からない味のお菓子がある!」

 遠慮していた訳ではないが、が特に触れなかったから広げなかった袋をオレ達はひっくり返して吟味した。一体幾ら分をこの菓子に費やしたか分からないが、大小様々な種類が揃っていた。

「尽ちゃんはいつまでいるの?」
「あー……寮には明日まで外泊届けを出している」
「じゃあ今日はこのまま泊まれるね!」

 さすがに咳き込みそうになる喉をどうにか抑えた。

「伯母さん、布団二組ここに置いてくれたみたいなんだよ。泊まれるよ」
「……………特に構わないが」
「よし!じゃあ布団敷こうか」
「もう寝るのか?」
「ゴロゴロしてる方が話しやすいよ」

 はきっと何も言われないだろうが、布団の上で菓子を食い散らかした事がバレたら怒られるのはきっとオレだ。だがまあ、そんな扱いはもう生まれてきてから散々今まで味わってきたので今更抵抗するつもりはないという諦めもあったりする。

「布団入るというのならオレは一度風呂に入ってくるぞ」
「うん、待ってる~」


 は今一人暮らしをしている。彼女が通っている大学はここから大きく離れているという訳ではないが、通学するのに二時間かかるということで、学校の近くのアパートを借りているらしい。聞けば通学にそのくらいの時間をかけている生徒など珍しい訳ではないらしいのだが、彼女の思い切った性格と同じように、彼女の親も思い切った決断をするような人間だ。それにどちらかと言うまでもなく富民層に入る彼ら――正直それはオレにも当てはまるが――からすれば、毎日の通学費と毎月の家賃を比べることなどしないどんぶり勘定プラス自身の意思で一人暮らしは決定した。

 彼女は幻の様な存在である。今こうして普通に話していたが、実際のと話したのは随分久しぶりだった。確か、去年の年末に話した記憶はあるから一年ぶりか。今年の夏は帰って来てなかった。それに、同じ家で暮らしている訳でもないのに、まして、学校はすれ違う様に変わっていくのだから、一番と喋っていたのは小さな頃だけ。この旅館にふらりと現れて親と少し話して帰る事は何度もあったようだが、丁度オレがいない時だったり、入れ違いだったり。オレを目的に会いに来ている訳じゃないのだから仕方のない話だが。

 だからオレからへ向ける感情というものもモヤモヤとして、不気味な幻影をしていた。無論、だが恐らく、彼女は嫌いではない。かといってチームメイトへ向ける感情とも違うし、クラスメイトともまた違う。気兼ねなく話すことは出来てもその先には進まない。進めないのだろうか。むしろオレは戻ろうとしているのかもしれない。全く謎だ。

 深く考えるべき話題でもないのかもしれない。はただの従姉弟で、オレにとって年に一度会うか会わないか、その程度で、言ってしまえば彼女がいなくてもオレは変わらない。ただこうフと考えた時、オレはどうにも煮え切らない思い出いっぱいになってしまうだけで。ただ彼女と話した話題や好きなものを思い出した時に、誰にも説明しがたい思いを抱えてしまうだけで。ただ、ただ、それだけだ。

 そう納得したくてもこの幻影はまだ掴めない。


 風呂から戻ると、は窓辺の椅子に寄りかかって目を閉じていた。――いや、寝ているのか。起こすのは忍びない、とも考えたが待っていると言ったのは彼女の方だし、起こさなかったら起こさなかったで後で文句を言われるかもしれない。親から文句を言われる事は慣れているが、彼女からは慣れてない。

 オレはの肩を軽く揺らした。

、眠いのか」
「……う…………」
「……散々アレほど呑んでいれば当然か」
「じんちゃん……」
「何だ」
「……尽ちゃん……」

 ぼやっとした顔ではオレを見た。体を起こす気はまだないようで、首だけを傾けてこちらを向く。眠いのならさっさと寝てしまえばいいのに、何やら未練でもあるのか、瞬きの感覚は長いのだが、しつこくは起きていた。

「尽ちゃん、大きくなったね……」
「……伸びたと言いたいが、正直言うと去年から殆ど変わってないぞ」
「昔よりはずっと……」
「いつの話をしているのだ」

 三歳差。それ程差があれば幼い頃、見上げる事が多かったのは当然だ。その時期は女子の方が大きくなりやすいのもあるし、今でこそ平均を超えるくらいまで身長は伸びたが、小中の頃はとくに目立って大きい身長というものでもなかった。その半面、は大きかった。女子としてはスラっと高い身長は小学の時からそこまで変わってないらしいが、オレとしてはずっと見上げているイメージはとは真逆にあった。

「尽ちゃん」

 また意味もなくオレの名前を呼んだ。

「だから何だ」
「名前」
「名前?」
「呼んでくれたね……久しぶりに」

 まるで息が詰まるかと思った。
 の何気ない指摘に思わずオレは動揺する。そんな事ない、と否定する口に手を置いて、オレは思い返す。そういえば、久しぶりに呼んだ気がした。久しぶりにそんな風に口を動かした気がした。とはいえ、

「だから、何だというのだ」
「………」
「オレは……」

 特に何も思いつかないまま、オレは言葉を止めた。

「意味はないよ。なんとなく、思っただけ」

 は視線を落としたせいで、殆ど寝ているように見えた。だけど時たままつ毛がパチパチと動いているようだからまだ起きているのだろう。

「……でもさ、泊まるって電話したの昨日なのに、そこから尽ちゃんが帰ってくるなんて」
「……」
「これって嬉しいって言っていいのかな」

「……ねえ、尽ちゃん。私がいたから飛んできたの?」

 まさか、とすぐに笑い飛ばせれば良かった。すぐに言ってしまえばただの笑い話になったというのに。はぼんやりとした目をこちらに向けた。じっと。その目をオレは離せないでいるのに、眠さと戦っている彼女はすぐにそちらにつれていかれる。いつだってそうだ。オレがお前を追いかけてばかりなのに、知らん顔のお前はいつの間にか隣に戻ってくる。年上の親戚に憧れるのは至極有り触れたストーリー。それだけだろう。それしかないだろう。なあ。
 なあ、。今日の月は綺麗だよ。

霧は晴れるか