あの人はいつも同じ場所を見ていた



「俺はなあ、。別にお妙さんに振り向いてもらわなくても、いいんだ」

 そういう近藤の一言に、名前を呼ばれたは「はあ」とやる気のない生返事を返した。勤務中は比較的真面目で、このような間抜けな返事を返すことは滅多にないのだが、今回に関してはどうにも彼の発言があまりに突然で、そしてありえないものだったから仕方がない。
 なぜかと問われれば、それは彼がいつも『お妙さん』にしつこく詰め寄っているというというのに「振り向いてもらわなくてもいい」と、真逆のことを言ったからだ。
 そもそも近藤は真撰組のトップとして、最高の活躍を果たしていた。が、彼は女性に対しては頭を悩ませる点があったのだ。となると、活躍と女性関係とでプラス・マイナスゼロになるかというとそうでもない。両極端なのだ。たまにプラスにいくが、マイナスになる時もある。ゼロなんてそう、ない。
「俺はなあ、お妙さんが幸せだったらそれでいいんだ」
「……はあ」
 二度目の生返事。もしかして今、夢を見ているのかもしれないと思考を巡らせたが、この肌に感じられる温度や、季節の音を幻というのならば、常に人は夢を見続けているとしか言えない。
 そもそも『お妙さん』という人物を、は話でしか聞いたことがなかった。たまたま見かける女性が『お妙さん』だったのかもしれないが、ただのアルバイトの女中であるは、いつも慌ただしく掃除やら料理をしている為に誰かは分からない。
 と、言ってもこの屯所で見かける女中以外の女性はあまりに少ないので限定は出来た。そこではどうにか記憶を引き出して、『お妙さん』を探す。(見かけるのは…。そう、橙の髪をした少女、空色の髪の女性……茶色の髪をした女性)は、フと気付いた。(そうか。彼女か)そういえば近藤は彼女だけを見ていた気がする。橙色の少女を好きになるには、あまりにも歳の差があるし、それに空色の女性は違う人を見ていた。(気が、する)
「人の幸せぶっ壊して、お妙さんとなんて思えねえんだよ」
「……」
「…今思うとなあ、俺本当に本気だったんだってやっと分かったんだ」
「…それなのに、諦めるんですか?」
 の一言に、近藤は笑うという曖昧な返事をした。
 近藤は綺麗さっぱり諦めようとしていた。あそこまで、部下達に部外者にストーカーと言われようが、なんだろうが、彼はしつこく付きまとっていたというのに。は無性に苛立ちを感じたが、一女中である自分がなにか言える立場ではない。
 そもそもは近藤にお茶を出しに、個室に来たのだ。これ以外にも仕事はまだまだあるというのに、近藤の情けない話を聞いているわけにはいかない。だが、近藤はあくまで自分の上司。立ち上がろうにも立ち上がれず、お盆を膝に置いて正座をしているしか他なかった。
 営業スマイルも薄れてきた。
「考えてみれば、お妙さんはアレが仕事だったんだもんな」
「………お水、ですよね?」
「ああ。…俺なんて輩、他にも沢山いたんだろうなあ」
 いや、近藤はそんな事は最初っから気付いていた。気付いていないフリをしていた。だけどこんな他人の恋模様をが真剣に考えてもしょうがない。何度も言うようだが、にはまだ仕事が残っているのだ。(もしこれで残業になったら…)はこっそりとため息をついた。
 それに気付いたのか、近藤は言った。
「ごめんな、。こんな話に付き合わせて」
「………いえ」
「でもこんな時に限って、トシも総悟もいねーんだ」
 近藤は苦く笑って「困ったもんだよ」と続けた。の膝の上にあるお盆は、体温で次第に温まってきている。

 少しの沈黙が続いた為に、はもう済んだのかと立ち上がった。立ち上がったときにまた、近藤から話しかけられる。「ついでにこれを捨てて来てくれないか」近藤が握っていたのは封筒。だけど少し気品のある封筒だった。
 はそれを受け取らず、じっと眺めた。
「やっぱなあ、。俺には無理なんだよ」
「……はあ」
「追いかけるのも無理。…見守るのも暫く無理だ」
 ぎゅ、とその封筒に皺が入る。眺めるのを止めたはそれを取ろうとすると、急に近藤は手を引っ込めた。の手が、当てもなく宙を彷徨った。そして、チラリと近藤を眺めると、彼自身も今の行動に驚いたのか、「あ、ああ」と締りが悪く言った。
「俺ぁ……何、やってんだろうなあ」
「さあ…」
 失礼な言い方だった。と言ってからは後悔したが、近藤はさして気にもしない顔だった。「そうだよな、俺さえも分からないのに」泣きたそうな、顔だった。
 そして、ぐしゃりと、先ほどまでは小さな皺だけだった手紙を思い切り握り締めた。白一色と言えるような、高そうな手紙には沢山の灰色の影が付いた。
「自惚れかもしんねえけど、お妙さん、俺の事好きだった気がすんだよな」
「………」
「むしろ、ほんと一瞬だけ…好きだったかもしんねえ」
「よく、分かりますね…」
 やっと出た返事を、は淡々と言った。それを聞いているのか、聞いていないのか、近藤は笑った。「だってな、」
「俺が、お妙さんから遠ざかったんだ」
「………え?」
「あれ程遠い存在だった方がさ近づいてきたらなんだか恐くなってよ」
 と、頼りなさそうに近藤はまた笑う。
「なんだか…ややこしいです」
「おう、そうだな。言ってて俺もいまいちよく分かんねえ」

(つまりは、最初近藤局長がお妙さんに片思いして、そしてお妙さんが局長に片思いして、最後に、局長がまた、お妙さんに片思いして、)

 ややこしいどころでは、ない気がした。周り回りすぎている。無限ループにほど近い。だけど、それももう終わりなのだ。それは、この手紙が告げた。
「だから俺、ずっと待ってるしかねえんだ」
「……でも…」
「今はへこんで、そんでまた、だ」
(また彼女が俺に惚れるまで)

 彼はまた強く、結婚式の招待状を握った。



その場所が自分、だったらと
(彼はその後、自分は最低な男だと、自嘲した。
 だけど、一番最低なのは私だった。周りに回っている無限ループを止めてしまって、そして、割り込もうとしている、私だった。)