東堂尽八先輩は一言で言うなら、良い人、だった。

「やあ、ちゃん。何か困った事はないか?」

 校内で出会った時には決まってまずはこう聞いてきてくれるし、何もなかったとしても、「そうか」と頷いてお菓子をくれる。昨日はアポロチョコレートで、一昨日はポイフルだった。それを世間様はきっと『良い人』と評価するのだろう。わたしと東堂先輩の関係なんて、ただ学校が同じだけだというのに、本当に親切な人。委員会とかが一緒な訳でもないし、部活なんてもってのほか。そもそもわたしが1年で先輩が3年ということで、差はかなり開いている。
 間接的な接点といえば、同じクラスの真波君が東堂先輩と同じ部活だって事くらい。でもあんまり自転車競技部の関係はよく知らないけど、真波君と東堂先輩が凄い仲良いって雰囲気でもないってのは何となく知ってる。そもそも、東堂先輩と一番仲良い人ってのはこの学校にいるのだろうか。見かける度に違う人・色んな人と一緒にいて、どこにでも溶け込める人気者のよう。

「どうかしたのか?」

 そんな事を東堂先輩の目の前で、しかも声をかけられたというのに考え込んでしまったわたしの顔を、彼は覗き込んだ。平均より少し高い程度の身長の先輩は平均より少し低いわたしからすれば充分巨人である。
 東堂先輩は軽い所もあるけれど、女子人気は凄い高いし、それに普通にイケメンだ。(普通に、とわざわざ付けてしまったのは、彼自身自分をそう語る時があるから少しその言葉の真実味が薄れてしまっているせい。)ファンクラブの子からは『東堂様』だなんて呼ばれてるし、そんな先輩からのこんなケアを受けている一般市民であるわたしなんて妬みの対象になりそうで少し怖い。

「いえ…、すみません、ちょっとだけ眠くて。――あ、困った事はないです」
「うむ。それならいい事だ、が、あまり眠れなかったのか?」
「……昨日はずっと宿題してて」

 と言うのは嘘だ。そもそも咄嗟に出てしまった『ちょっとだけ眠い』も嘘だったので、そのことを撤回するよりそれらしい理由をこの口は並べてしまった。宿題なんてあったと言えばあったけれど、今日まで急いでやるものなんてなかったし、というか寝た時間は夜の10時で、起きたのは7時というバッチリ9時間睡眠。こうやって口走ってしまう癖を直したいけれど、無意識というものは恐ろしい。

「大変だったな」

 そんなわたしの心の中を先輩が知るよしもなく、ポンとわたしの頭に手を置いて、労うように頭を撫でてくれた。労う、よりは子供に対して「ほーらよく頑張ったね」という甘やかしのような行動のように思えるけれど、そこまで気に障るものではないから指摘はしない。頭を撫でられるのは嫌じゃないけど、嬉しくもなかったりする。

「さっき、そこでココアを買ったんだ」東堂先輩は手に持っていた缶を差し出した。もう片方の手には何もなくて、きっと、わたしに持ってくる為だけに自販機に寄ったのだろう。申し訳ないと思う気持ちはあるけれど、最近ではよくある事だ。

「ありがとうございます」

 初めの頃はさすがに遠慮していた贈り物をわたしはすんなりと受け取る。もう先輩の心遣いも慣れた。遠慮するくらい一歩ひくのもいいけれど、謙遜しっぱなしは損でしかない。貰えるものなら貰うし、実際、先輩はわたしに送ろうとして買ってるんだからここでいらないと言っても仕方がない。

「と、では、オレはここで」

 1年の廊下に東堂先輩がいるのはやっぱり不自然。わざわざここまでココアの為に運んで来なくても、なんて思いもするけれど、それを言ってしまったらきっとこの関係も終わるのだろう。惜しい訳ではないが、先輩を傷つけるのはさすがに気が引ける。その背中を見送っていると、後ろから声がかかった。

「いいなあ。さん。物貰えて」

 よく言われる言葉だった。主にファンクラブの子から。東堂先輩は良い人で、よく物をくれるけれど、別にそれは皆にやっている訳ではない。自惚れてなければ、今のところわたしにしかやってないはずだった。(というか配り歩いてたとしたらシュールすぎるな。)2,3年生の先輩方でもなく、他の1年生の子でもなく、わたしだけ。好意を感じはするけれど、なんでわたしなのかはさっぱりだ。悪意を感じる訳じゃないし、わたしとしては物貰えてラッキーくらいにしか思ってないので、理由なんて何でも良かったりするんだけれども。

 ただ今回のコレは女の子の声じゃなかった。振り返ると、想像通り同じクラスの真波君が立っていた。いつも汗垂らして全力出してきましたって感じだけど、今日はただ爽やかに笑っている。

「おはよう。今日は1限からなんだね、凄い早い」
「うん、おはよー。ちょっと雨振りそうだったから」

 遅刻魔である真波君が朝から出ている事は少ないってのは短い間しか過ごしてないわたしでも分かった。それでも今日は始業10分前という余裕の入場で、もしかしたら天変地異の前触れかもしれない。雨が振りそうと真波君の言うとおり、今日は起きた時から太陽なんて見えなくて、雲が低かった。折りたたみ傘は確か鞄に入れてたよなとぼんやり思った。でも今日は雨なんかじゃなくて槍が降るかも。
 手に持っていたココアを開けようとプルタブを引くけれどなかなか開かない。そろそろ何も返さないわたしに対して先輩がとうとう仕込んだかと思っていたけれど、それを真波君は簡単に開けてくれた。

さんって、役得だよね。ああ、悪い意味じゃないよ」

 何の事?と聞くのはさすがに惚けすぎだろうか。わたしは黙って真波君を見た。

「自分の立ち位置を分かってる気がする」
「それって悪い意味じゃないの?」
「悪い意味じゃないの。周りが思っている以上にさんは器用なのに、それに上手く気付いてないせいだけどね」

 つまりは『ズルい人間』だと真波君は言っているのだろうか。否定したい気持ちが口を開くけれど、「そうかな」くらいしか出なかった。言い訳なんて頭の中を沢山駆け巡っているけれど、真波君に言える言葉が見つからなかった。それは真波君が、彼の言うとおり気付いている側の人間だからか。どれも跳ね返されるようで、わたしに残った選択肢は沈黙しかない。

「真波君って、わたしの事嫌い?」
「まさか。むしろ良いと思ってるよ。凄いなって」
「……よく人の事見てるんだね」
「さすがに目立つし、でも」

 少ししか飲んでないココアをわたしの手から取って、真波君は一気にごくりと飲んだ。返されたけれどもう殆ど残ってない。とはいえ、喉もそう乾いてなかったからいいけど。

「さすがにそろそろリアクションしないと、どうなるか分かんないよ?」


 テスト週間はその言葉だけでも少し気分が滅入るというのに、学校内も静まり返るせいでさらに静かな空気に包まれる。部活で残る生徒がいないし、残っている人と言えば自習室や、はたまた自身の教室で勉強会中か。それに今日は雨も振っているせいで、この空間は外と切り離されているようだった。
 わたしはと言えば、ただなんとなく図書室に残って、勉強をしていた。広々とした実習室が別にあるからか、あまりこの教室は混んでないので一人でいるのはおすすめスポットであった。

 宿題からやろうか、と考えたところで、今日わたしがついた嘘を思い出した。あんな嘘いつもの事だけど今日はそのあとの鋭い指摘があったせいで、少しだけもやもやして忘れられないでいた。

 人間に裏表は必ずある。自覚してないだけってのは多い。家族にしか見せない顔とか、裏表って言っちゃうと聞こえは悪いけど、そういうものだって言ってしまえば隠している要素だ。隠しているつもりなんかなくても、それこそ、無意識に。
 わたしは悪い意味でいい性格をしているだろう。真波君はああ言ってくれたけれど、わたしという人間の心の中はやはり良くなんてない。だからこそこうやってひっそりと隠しているのだけど、このギャップに心も体もそれから口もついていけてないのだろう。
 だからと言ってもわたしが先輩に何をすればいいのか。ただ物くれる人に何を思えばいいのか。

「隣、いいかな」

 ビクリと肩を揺らしてしまった。答える前に椅子を引く音を聞いた。

「東堂先輩」
「悪い。集中していたようだな」

 手には数冊の本が握られており、勉強をしにきたよりは、その背表紙から察するに、読書する為に来たのだろう。まだテストまでは先はあるが、その態度はなかなか余裕綽々だ。

「……勉強はいいんですか」
「ああ、今焦るものはない。ただ、こういう時じゃないと本も読めないのでね」

 部活も大事だろうが、学生の本分は勉強だ。最大まで運動に切り詰めてしまっては他の余暇なんてする暇がないのか、東堂先輩は寂しそうにする反面、嬉しそうだった。強豪と言われているらしいここの自転車競技部の一員として、先輩がどのように活躍しているかなんて全く知らないけれど、よく名前を聞くということはなんとなく想像は出来る。

「数学か」東堂先輩がわたしのノートを少しだけ見た。
「はい、宿題で」
「そうか、またか……。ちゃんのクラスは大変だな」

 その言葉にギクリとする。いや、でも、2日連続で宿題ある事なんて珍しいことじゃない。それに昨日の宿題がどの教科の何かなんても言ってないんだから、こんなに焦る必要なんてきっとないのだ。

「テストも近いですから」

 上手く話題を変えられそうなことを言えたと、自分を褒めたい。

「熱心なのはいい事だぞ。少しくらいならオレでも教えられるが、何か分からない所はあるか?」
「……今のところは大丈夫です」

 やはりよく分からない。わたしのために何かをしてくれるのは嬉しいが、彼にとってそれはほとんどマイナスしかない。勉強を教える側が説明することで自身も学習出来るとか、そういうのはあるだろうけど、ほとんど出来ない読書というレアな時間をわたしのために裂いてくれる理由は不明だ。感謝の次に湧いてくる感情と言えば申し訳ないなと、罪悪感だけで、そもそもこんな罪悪感を抱かなきゃいけない理由としては、何故か先輩が構ってくるからだから、わたしはこの憤りをどうすればいいのか分からない。怒ることさえ間違っているだろうけれど、だけど。

ちゃん」

 伸びてきた東堂先輩の手に、思わず身がこわばった。そのまま伸びてきたのは首先で、真っ白になった頭は何も信号が送れずに、ただただ先輩を見た。息が詰まるような緊張をよそに、指先が止まったのは襟元のリボンだった。

「解けかかってるから結び直すよ」

 おそらくたった少しの時間だっただろう。だけどわたしの固まった体が溶けるまで、ひどく長く感じた。ようやっと、思考が追いついたところで、わたしは思い上がった自分の考えを恥じた。顔が熱くなっているかもしれない。今すぐここから逃げ出したくなった。

「あ、」東堂先輩はわたしの顔を見て動揺したような顔をした。「も、申し訳ない!幾らなんでもオレが結ぶのはおかしかったかな、いや完全におかしいな!すまない!」

 パッとわたしから離れると頭を下げた。言い分からするに、わたしが違う理由で真っ赤になっていると思っているのだろう。だけど心から詫びているだろう東堂先輩にますますわたしは困惑するのみだった。わたしがこういった反応を見せた事はほとんど、いや、全くなかった。先ほどの真波君に忠告を真に受けたせいか、いや、でもわたしは先輩を掴めていなかった。この裏で何を思っているのか探っていたものの、分からないから無理だと前に進まず諦めるばかりで何一つ知らなかった。それなのに勝手に被害妄想を膨らませて、なんて恥ずかしい。

「……い、いえ、ありがとうございました」

 びっくりする程、先輩は良い人で、いや、知っていたけれど、それでも、きっともしかしたらわたしは今度東堂先輩以上に良い人と出会えないかもしれない。
 自然と心臓はバクバクうるさくて、まだ熱を感じる。

「すみません、ちょっと向こう向いててもらえますか」
「……分かった」

 特に理由を聞かず、わたしに背中を向けた。

 どうしてわたしは図書室に来てしまったのだろう。ここはほとんど人が来ないから、この状況を上手く打破するのはわたしがアクションを起こさなければならない。今日のわたしはどこかついていない。一体何が問題だったのだろうか。

 頭に浮かぶ文字を細い針で留めるようにわたしは必死に考えた。だけど、わたしと先輩の設定は薄すぎて、共通点など、毎日毎日のあの貰い物しかないのだ。

「コ、ココアありがとうございました。今朝の」
「ああ、いいよ」

 唐突な話題だったものの、東堂先輩は驚くことなく返してくれた。どこか肩の荷が降りたようだった。

「……半分以上、真波君に飲まれてしまいましたけど」
「真波?……同じクラスだったか」
「はい」
「……次また、持ってくるときは」背中を向けたまま、言う。「その時はちゃんが全部飲んでくれるか?」

 責められている訳ではなさそうだが、どこかいつもと違う先輩の雰囲気だった。わたしはつられて「はい」とは言ったものの、相変わらずその実は混ざった絵の具のように不明瞭。東堂先輩にとってわたしという存在が何なのか分からない。単に人に物をあげるのが好きなだけならわたしと限定しなくていい。毎日の成長を楽しめる朝顔に水をやるようにすくすく成長してる訳でもない。そんな中、もしかして、と浮かんだ答えはまさか面と向かって本人に聞けるはずもない。だからわたしはずっと知らん顔をして受け取るだけだった。ではなんと言えばいいかなんて、

「どうして、先輩はわたしに、」

 こうやって惚けて策略家のよう。続けようとした言葉はあまりに自分に嫌気が刺して止めたが、この距離この空間ではもう誤魔化しは効かない。暫くの沈黙のあと、東堂先輩は静かに言った。

「……君はまるでどこにでも溶けこむようで、実際一人なのが初め気になってね」

 それはわたしが東堂先輩にいつも思っている事で、少し驚いた。だけどその意味合いは全くの逆だろう。太陽と月が同じように、違うように。

「こんな風にしか繋ぎ留められない格好悪いオレに、どうしてかなんて、どうか皆まで説明させないでくれよ」

ミラー・ミラーオンザウォール