男は成功したという




 自分は記憶を持っている。これは成功だと感じたとともに、絶望しかなかった。僕の名は××××。今は18歳で、グランコクマ王立譜術・譜業研究所に配属している。自分でも驚いてしまうほどに、今までの生い立ちだって完璧に覚えているんだ。生憎、譜眼までは引き継いでくれなかったようだったが、他に関しては何も不自由のない身体の作りをしている。心臓だってちゃんと動いているし、手足も自由に動かせる。そもそも、記憶の引き継ぎ以外は問題なく行えるはずだったのだから、ここは出来て当然のところなのだが、まさか全てが僕自身でそろうと思っていなかった。

 そう完璧だ、完璧な筈なのに、ああ、それなのにどうしてどうして。

 僕は捨てられているのだ?



「……コホッ……」

 彼は小さく咳き込むと、そのまま地に伏せるように雪の上に倒れた。イエローオーカーをした短い髪の毛――男性にすれば長くその髪は肩に触れている――が揺れ、生気が漲る瞳がギラギラと光る。
 彼の持つ記憶からすれば、『成功』したのならそれなりの扱いをしてもらえるはずだ。『はずだ』と言うのは今まで一度足りとも成功していないからだが、元々頭が良い『彼』だったのだから、きっと、この憶測は当たっている、『はずだ』った。もちろん、個人としては良い思いではないだろうが、実験体としては高待遇で出迎えてもらえるものではないだろうか。

 彼は悔しいや悲しいと言う感情は思いつかず、ただ虚しかった。

 このまま自分は、誰にも知らされないまま死んでしまうのかと。そもそも、なぜ自分が今こうして居る理由が分からない。確かに、テストとして自身のデータを取ったけれど、こうして実際に実行してみようとはしていない。…いや、もしかしたらそこまでの記憶だから、と言う考えもあるかもしれない、と彼は思考するがそんなもの分からないのでしょうがない。
 
「……死にたくないか、死にたい…か」

 彼は歯を噛み締めた。薄着ではなかったのだが、何時間も雪の中で耐えられる格好ではないし、他に身を温めるものなどない現状、必然的に生死をさまよう他なかった。あまり似合わない『彼』の表情。死ぬ事が出来るのならば、こんな苦しい思いもせずに潔く今この場で首を掻っ切って死んでいた。けれど、今は動くことすらままならない。考えられる死は、餓死や飢え死等、じわじわとしたものだ。

 とはいえ、自分が生きて困る者は居るが死んで困る者はいないだろう。

 せいぜい死後にこんな所で死臭を放っている自分を見て嫌な顔をする生き物がいるだけだ。それにこれからどう生きようにも彼に宛てなど無い。記憶を持って生まれたとしても、成り代わることなど出来ないのだ。それも踏まえた上でここに捨てられたというのなら、どうにも命をぞんざいに扱われているようだ。無論、その行動を第一にしたのは自分自身なのだが。
 
 そしてまた咳き込んだ。『彼』の知り合いに会った所で、もし本人と鉢合わせをしてしまえばそこまでだ。きっと殺されるだろう。誰だって、いや、『彼』はこの存在を快く認めてくれるはずがないだろう。他でもない、誰でもない、彼が知っていたし、分かっていた。

「……このまま…眠るように死ねるのならば…」

 この上なく幸いだ、と目を閉じた時、彼の近くで足音が聞こえた。ざくざく、ざくざく。雪を踏む音。ああ、なつかしい。
 
「…………あれ?っだ、大丈夫ですか!?」
「…………」
「も、もしかして遭難したんですか?」

 頭には暖かそうなニット帽に、首には手編みのようなマフラー。彼の近くには、丁度今の彼の年齢と同じくらいの少女が立っていた。例えここが雪国と言えど彼からしてみれば十分厚着と思える。今日はこの地方からすればまだ暖かい日だ。完全に防御した格好の少女は、しゃがんで彼の顔を覗き込んでは、慌しく立ち上がるを繰り返す。
 
「ご、ごめんなさい、い、今わたししか人が…」
「…………うるさい」

 彼は薄く目を開けると、ますます彼女は慌てたような表情を見せた。
 童顔で、けれど年齢はこの見かけよりは上だろう。彼は冷静にそこまで考えると、彼女の目を見た。あまり、人を騙すような人間には見えない。が、警戒は必要だ。

「え、えっと…何があったんですか?」
「……持病のせいだ、気にしなくて良い」
「そうですか、って言えればいいんですけど…わたしの家、そこなんです」
「……だから?」
「窓から人を倒れているのを見るのは、どうも趣味じゃないので…えっと、」

 彼女は不器用に笑うと、自分の家を指差しながら続けた。

「ちょっとくらい、上がってって下さい」



 彼女の肩を借りながらフラフラとした足取りでたどり着いた小屋には、彼女以外の者がいた。小さい造りであったから一人暮らしかと思ったが、どうやら二人暮らしのようだ。暖炉の前で編み物をしている人物を、彼は見ていると彼女は言った。
 
「わたしの他に、おばあちゃんがいるんです」
「………どうも、お邪魔します」

 社交辞令として、彼は小さくお辞儀をすると、祖母は首だけで振り返って、目を細め笑った。「おやぁ、大きくなったねえ。お母さんは元気かい?」
 
 その言葉に、彼は戸惑っていると、彼女は少しだけ苦い表情を浮かべる。

「違うよ、おばーちゃん。初めましてだよ!」
「おや?そうかい…?……名前は何て?」
「……バルフォア、です」

 少し悩んだ後、彼は小さく言った。その言葉に祖母は満足したのか、うんうんと嬉しそうに頷きながら編み物を再開した。
 
「あ、そういえばわたしは、って言うんです」

 彼を、『バルフォア』を椅子に座らせて、は鍋を温めた。鼻を掠めるこの匂いは、恐らくコーンポタージュ。カチャカチャと食器を鳴らしながら彼女はそれを盛る。

「バルフォアさん、バルフォアさん……うん、バルフォア、って名字を聞くと、譜術のバルフォア博士を思い出します」
「………へえ、そんな人がいるんだな…」
「ほんとーに凄い人なんですよ!でも他では違う呼ばれ方なんだったかなあ」

 ベラベラと喋りだすにうんざりしつつも、彼は適当に頷いていた。目の前に置かれたスープを飲む気になれない。はそれに気付いているが、意図的に飲んでいない事には気付いておらず、何度もスープのカップを彼の方へちょっとだけ押した。ここにある、と無言の圧力だったけれど、彼はカップに視線を向けない。

「譜術を勉強する時いつも、おかあさんに彼を見習いなさい!って言われてたんです」
「………」
「でも、やっぱりわたしはなれないんですよね……。いや、簡単になれたら、」

 は自分の分のコーンスープを口に含んで、ふう、と溜息を吐いた。

「簡単になれるものなら、困りますよね」
「…………彼になりたいのか?」
「前までは。……でも、なれないって分かったら結構簡単に思えちゃって…」

 そんな事は彼も分かっていた。彼は他でもない彼なのに、『彼』ではない。彼になっているのに、『彼』ではない。どんなに事実を覆そうとしても、オリジナルはオリジナルだ。それだというのに赤の他人が成れるはずがない。彼は鼻で笑ったのだが、彼女は気づかないのか、気にしないのかそんな彼を訝しげにも見ることはなかった。
 彼は少し視線を下ろしたのだが、またカップが近づいているのが小さく視界に入った。どうやら彼女はこのスープを彼に飲ますことで頭がいっぱいらしい。ここまでされると飲まなきゃいけないような気もしてくるが、ここまで拒否したのだから、というプライドもある。

 しかし、どこか近すぎじゃないだろうか?

「あ」

 が小さくそう言ったと同時に、カップはグラりとバランスを崩して、零れた。

「…っ!」
「あわわわわ…ごめんなさい!えっと、布巾…!」

 音は小さく、規模も小さいが彼にしてみれば大迷惑だ。初めに会った時のようには慌しく立ち上がって、無駄に動きながら台所から真っ白な布巾を持ってきた。

「そのコート、洗濯します!脱いでもらっても大丈夫ですか?」
「…………ああ」

 露骨に嫌な顔をしながら、彼はコートを脱いだ、瞬間、は目を瞬かせる。今まで彼はずっと、黒くて無地のロングコートを着ていた。だからか、あまり下に着ている服が見えていなくて、はそれを特に対して気にしていなかったのだが、その下の姿に目を輝かせるように瞬かせた。

「その服……昔の帝国軍の制服に似てますね」
「……?」
「……確か昔、父が着ていた気が…」

 懐かしむように見る目は本物。ゆっくりと視線を下ろすを彼はじっと見つめた。あまりにも嬉しそうな顔だけれど、無意識なのか彼と目を合わせようとはしない。まるで、一人だけがその場で『父親』を思い出しているようだった。この家の状況と、彼女の今の現状から、彼女には今、両親がいないということを彼も安易に予想がついた。そうでなければこの表情なんてないだろう。

「あ、ごめんなさい。でも本当、懐かしくて……」
「……そうなのか?」
「そうですよ?だってその制服が廃止になったのは10年は前ですし」

 そう言う顔は恐らく、本物。



「え?バルフォアさんってこの地方の人じゃないんですか?」
「……祖父が昔ケテルブルグに住んでいた」
「なるほどー。ここって、地元の人でも迷うところだから危ないですよ」
「………ああ」

 『彼』はこの地方の出身で、もちろん子供の頃既にここの地理など完璧に覚えていたが、口裏を合わせる為に嘘をでっち上げた。無理やりすぎるかもしれない言い訳に、さすがに悪手だったかとあまり浮かない表情を浮かべた彼だが、はひと時足りとも疑わずに大きく頷いた。

「それじゃあ、ケテルブルグに向かっていたのなら一緒に行きましょうか?」
「ありがたいが……、」
「…て、もう暗くなってますね…。明日行きましょう」
「………貴女は話を聞いているのか?」

 もしかしたら彼の相槌などいらないのかもしれないのペースに、思わず彼は呟いたが運良くには聞き取れなかったようで、「はい?」と首を傾げた。

「ここから近いんですけど足場は悪いですから、今はゆっくりして下さいね!」
「………ああ」

 面倒になり、彼は歯切れの悪い返事をした。そしては近くに下げてあったエプロンを身に付け、夕飯の用意をし始める。手持ち無沙汰になってしまった彼は、何か手伝うべきかと立ち上がろうとするがすぐにはそれに気付き、座るように促した。

「バルフォアさんはお客様です!」
「………」
「え、っと、人間の食べれるものが出てくるので大丈夫ですよ」

 と、ありふれた冗談をはまた手元に目を移した。牢獄に入れられるよりも、よっぽど面倒な事になっているかもしれない。



 パチパチと、火がなる音がする。彼は静かに目を開くと、誰かが傍でうろうろとしている姿が見えた。ぼんやりと昨日の事を思い出している間に、は起きた彼に気付いたようで、にっこりと笑って挨拶をした。「おはよーございます!」

「居間でしか横になれる場所がなくてごめんなさい、ゆっくり休めましたか?」
「……いや、大丈夫だ」

 すっかり熟睡してしまっていた自分に、彼は驚いたが、考えてみればアレほど歩いていたのだから、妥当と言えば妥当なのかもしれない。それに『持病』だってある。彼が懇願したように、いつか眠るように息を引き取っていても不思議ではないだろう。
 起き上がると、すでにダイニングテーブルには祖母の姿が見える。となると、彼は一番最後に起きたこととなるのだが、またそこに、少しだけ彼は驚いた。それとも、この体は想像より疲労を感じやすいのだろうか。
 難しい顔をしていた彼だったが、何も気にしないは、脳天気に干していた洗顔用のタオルを彼に渡した。

「町にはもうちょっとしたら行きましょうね」
「……ああ」


 洗顔を済ませ、彼が戻ってきている頃にはテーブルには朝食が並べてあった。彼が昨日今日で分かった事だが、あのの祖母は足腰が悪いのかあまり立ち上がらなく、家事のほとんどをが行っていた。そして今も、無理して手伝おうとしている祖母をやんわりと止め、彼女一人が歩き回っている。

「ふふ、夜も朝も、こんなに賑やかなご飯は久しぶりだねぇ」
「そうだね。…バルフォアさんも、座ってどうぞ!」

 たった三人だが、と咄嗟に口にしようとしてしまった彼は口を閉じて頷く。それに、賑やかにしたつもりはない。ただ彼女達が喋っているのを聞いて、時たま相槌を打つだけだ。
 昨日の零したコーンスープは一口も飲んでいなかったが、その後の夕飯ではあんな事を起こさないためにに勧められたものは食べる事にしたおかげで久々に食べ物を彼は口にした。だけどそれは二人だけでずっと暮らしているせいかどうも偏った味付けだった。不味い訳ではないのだから、こうして食べてはいるのだが、久しぶりに『家の料理』というものを味わった気がしていた

「あ、ねえおばあちゃん、バルフォアさんのおじいさんって、見たことある?」

 唐突なの質問に彼は吃驚したが、生憎二人には彼の情報が少なすぎる。まさかこんな所で直ぐに分かる訳もないだろうし、彼女の祖母は物忘れをよくするようなので誤魔化しはいくらでも出来る。と、すぐに切り替えした。

「さぁねえ………でも、」

 と、祖母は彼を真正面に見た。老いて、垂れ下がった目だったが、それでも真っ直ぐに見据えるその目は、どこか何かを知っている気がした。
 何を言われても問題ない、と彼は考える。高い自尊心で今までだって生き延びてきたんだ。彼はその目を逸らす事無く見ていると、ふいに祖母は視線を外した。
 
「……私も歳だからねえ」
「うーん?そっかぁ…」



「バルフォアさん、外、寒いので帽子でもどうぞ」と、は黒のニット帽を彼に渡した。町に行くのなら、知り合いに会う危険性もあるのだから自然な流れで顔を隠したかったがこれなら気休め程度には隠せるだろうか。
 会釈をし、被ってみるとぴったりと髪が首に張り付いて何だかむず痒い。で、昨日見たマフラーとニット帽を着けていた。そして、祖母に挨拶すると、二人揃って家を出た。暖かい部屋の空気とは違って、突き刺すような雪国の温度。息は相変わらず白かった。それなのに身体があまり冷えないのはどうしてだろう、と彼は疑問に考える。

 とはいえ今更、町に行ったとしても彼にはなんら意味はなく、逆に『危ない状況』と呼べるだろう。しかしながら最悪の場合、地理は分かっているのだがら逃げる事だって出来る。危険な賭けではあるのだが、今この世界がどうなっているのかの興味もあったので、行かずにどこかに隠れるなどという選択肢は彼の中になかった。
 彼は雪道をの隣で黙って歩いた。

「ここの辺りは、結構…足場が、悪いので…注意して、下さいね」

 そう言っているの方が、傍から見れば彼よりも遥かに足取りが悪い。いや、傍から見れば、と言うよりは確実にふらふらとしている。一応地元の人ではない、と言っていた彼だったが、その彼からもどうしてもが地元の人間だと思えなかった。

「貴女の方が、大丈夫ですか?」
「ご、ごめんなさい」

 そろそろ面倒になり手を差し伸べるとはその手を素直に受け取った。

「……外くらい、普通に歩けるだろう。子供の時に習わなかったのか」
「恥ずかしながら…子供の頃あんまり…」

 悔やんでいるというよりは恥ずかしげに言った。彼はが肩にかけていたトートバッグを盗るようにした。そこまで重いものが入っていた訳ではないが、不安定にしている要素を減らすことは出来ただろう。
 その彼の様子に、はきょとんと目を瞬かせ止まったが、彼が急かすように引っ張るものだから慌てて足を進めた。

「あ、ありがとうございます」

 彼がここまでする必要なんて、冷静に考えればなかったのだが、到着が遅れたり、そもそもこうも意気込んでいるのに延期になることは避けたかった。そう、それだけだ。



「そういえば、なぜ貴女はあのような所に住んでいるんだ?」

 町の輪郭が見え始めた時、ふいに彼はの方へと振り返って、聞いた。彼にとって何も有益ではない情報ではあるのだが、いくらかコミュニケーションは取っておいた方がいいだろうという判断だ。

「ああ、その事ですか。えーとですね…」

 一般的に考えるなら、普通、家を建てるのなら町の中・村の中、人が集まるところに作るだろう。それに、の家には祖母も居る。それなら、もしもの時を考えあそこまで山奥ではなく、近くに住めばいいだろう。それでいて、彼女も彼女で雪道をこんなに不自由に歩いている。

「うちに、おばあちゃんが居たじゃないですか」
「そうだな」
「で、おじいちゃんが少し前に亡くなってまして、」
「……」
「その後におばあちゃんが居なくなっちゃったんです」
「……居なくなった?」

 彼は確認するようにそう聞いた。一緒に居た時間なんて、合計したとしても一日にも満たない間だろうが、亡くなったショックでどこかへ行くなどと、感情的な人間には彼には見えなかった。言うならば、典型的な『おばあちゃん』だった。
 彼には人が死んだ後残された人間がどうするか、という想定は出来ない。
 
「やや、その後見つかったんですよ?」
「……そうじゃなきゃ話しが通じない」
「それで、この辺りはわたしもよく分かんないんですけど、」

 は視線を逸らして、考えるような素振りを見せる。

「「ここはおじいちゃんとの思い出の場所だからどこにもいかない」って」
「まさかあの小屋が?」
「らしいです。わたし、そんな話一切聞いてなかったのに、なあ……」

 そうは言うが、きっと彼女だってその理由くらいいくつか推測するくらい出来ているだろう。思い出を話したい人間だったのか、一人心の中に閉まって置きたい人間だったのか、きっとあの祖母は後者だったのか。
 それにしても、いきなり小屋にいたなどとは唐突過ぎる事だ。

「でも初めはわたしとおばあちゃんとおじいちゃんで、ケテルブルクに住んでたんです」
「……ああ」
「二人になっちゃって、今は小屋って事ですねえ」

 まるで他人事のようには笑うが、前まで町に住んでいたのなら尚更、あそこでの生活は苦しかっただろう。もし夕飯の材料が足りなくなったとしても、夜の山を歩くのは危険だ。それに年頃の娘でもあるのだから、欲しいものもあるだろうに。

「……ケテルブルグにはもう、住まないのか?」
「おばあちゃんの事もあるので、そっちの方がいいと思うんです、けど……」

 と、は口ごもった。

「おばあちゃん、足腰が悪いみたいで、正に文字通り動けないんです」
「……小屋にいた時から?」
「うーん、そうですねえ……。昔はかーなり元気だったのになあ。おじいちゃんが亡くなってから、やっぱ寂しいんですかね」

 思い出すように、はぼんやりと遠くを見る。目の前にはいつの間にか、町がはっきりと映し出されていた。前に彼が遠目で見たときと変わってはいない。

 彼はまた前に向きなおそうとすると、何かが飛んできた。
 それを思わず避けたのだが、咄嗟の事すぎての事を考えていなかったので、ソレはそのままにぶつかる。雪球だ。

「っぶ……」
「……すまない」
「いや、いいです…。…こらっ、人に雪球投げない!!」
「ぎゃぁー!先生が怒ったー!!」
「謝らなきゃもう一生、何も教えてあげないんだからね!!」

 どうやら投げた人物は数人の子供のようで、見つかった途端バラバラと散らばった。
 彼らの影はとっくに見えなくなったがはムキになって大声をあげる。その様子に、近くを歩いていた大人達はクスクスと、嫌な笑いではない笑いを浮かべていた。

のバーカ!!」
「あ!今呼び捨てで呼んた子誰!?敬称は大事なんだよ!!」

 はそのまま、彼の存在を忘れ、子供を追いかける。どうやら町の中は雪かきがされているため、からすればベストコンディションのようだ。それに今日は路面凍結も道の端だけのようだ。寒い空気を吸って吐いて、は追いかける。
 と、子供の一人がバランスを崩し、ズサアと音を立てて転んだ。それに対して、はきょとんと目を丸くさせ、そしてようやく状況を理解すると声をあげた。

「あ……だ、大丈夫!?」
「…う…うぅ…」

 ボロボロと泣き始める子供の目線に合わせて、きっとこの泣いている子供以上に焦っている顔では子供の頭を撫でた。

「大丈夫、大丈夫だよ……ファーストエイド」
「………う、ん…」

 転んで痛い、と言うよりは驚いて泣いているのか、まだグスグスと子供は鼻を鳴らす。その様子を遠くで見ていた先ほどの子供達がゆっくりとに近づいた。申し訳なさそうにしているのか、それとも気まずいのか、彼らは硬い表情だ。

「追いかけた先生も先生だけど、…今度遊ぶ時はちゃんと言ってね?」
「…はぁい」

 少しだけ遅い返事に、は苦笑し、その返事をした少年(恐らくに雪球を投げた子供だ)の頭を乱暴に撫でると立ち上がった。その横に彼が近づく。

「わたし、ここで先生しているんです。音素を教える、先生」
「……へえ」
「でも、元々は違う方がやってた私塾らしくて…」

 その言葉に、彼は少しだけ目を見開いた。

「そうそう、その塾、かのバルフォア博士も通ってたそうですよ」


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