※育成計画設定

ちゃんってこーいう所が駄目だよね。ツメが甘くて、もうどうしようもない感じ。昔からずっと治らないよねー!こんなんでよく教免取れたんだって感じ」
「……王馬くん、先生の事は『先生』と呼んで下さい。またそんな事言ってもこの補習は続きますし、続けますし、な、泣いてないですし……」

 思わず胸から上がってきた想いが鼻から溢れるかと思った。いや、もうなったんだけれど、それでも教え子の目の前、いやそもそも女として、ここで鼻水を垂れ流すわけにはいかない。右手で鼻覆いながら無様にも私はズズズと音を立てて啜った。既に視界の方はバッチリ歪んでいるんだけれども、物には優先順位があるのだ。鼻は出たけれどまだ涙は流れてない。垂れて来なければまだワンチャンあると思う。あ、駄目だ下向いたら落ちそう。

 涙目で睨んだって、負け犬の遠吠え程度にしか思えないのか、教卓に上がっている私の目の前、教室のど真ん中・最前列の机にいる王馬小吉くんはケラケラと笑った。私は瞬きしてしまうとこぼれ落ちてしまいそうになるので、その王馬くんをずっと見ているしか出来なかった。

「オレってば、ちゃんが最初に説明した事をちゃーんと覚えてたんだよ?優等生だよね~!ばっちりノートにも書いた!それが間違いだとも知らずに、ね。これはもう言い逃れも出来ないレベルの致命的なミスじゃないのかなあ~」

 いくら私が今年からの新任教師だからと言っても、王馬くんが私の事を慣れ慣れしく名前で呼んでくるのには簡単な理由があった。王馬くんは私の家の近所に住んでいて、小さい時は色々と事情があって面倒を見る機会が多かったから、王馬くんからすれば私は『幼馴染』なのである。(私からしても幼馴染になるのかどうかは国語の先生に聞いて欲しい)

 王馬君とは6歳も離れているから、中高どころか小学校でさえ学校で会うという事はなかったから、校内での様子というのは、この学校に就任してようやく分かった。一言で言えば問題児、いや、それ以外に彼を表せる言葉はない。

 必死で鼻を啜りながら、私はふうふうと息を吐いて、調子を調える。

「グズッ……王、馬くん、先生のことは……」
「ま、不幸中の幸いというべきかな。オレ以外の人達はみんな10分後、ちゃんが板書を消そうとした時に最原ちゃんが勇気を出して訂正してくれた事を覚えてたんだけどさ」
「聞いちゃいない……」

 成績が悪いという訳じゃない王馬くんがなぜこうして補講する羽目になったかというと、それはこの前の小テストの結果によるものだった。比較的簡単な小テストだったから、もう正直これは絶対みんな、満点が取れると思っていたので、だからつい、「このテストで満点取れなかったら、補講だからね!」と言ってしまった。

 もちろん、そんな事するつもりはなかった、のは今となっては後付の設定になるかもしれない。が、本当に本心なのだ。そのくらい大丈夫だよ、という言葉のつもりだった。ただでも、捉え方によってはかなりのプレッシャーになるかもしれなかったことは反省しなければならないだろう。人間というものは言った言葉は忘れても、言われた言葉はよく覚えている。それが自分の今やこれからに影響を及ぼすことならば尚更だ。ただでさえ、私は教師であって、相手は生徒。偉い・偉くないという問題ではなく、立場は違う。

 話を戻すが、それを言った時のクラスの表情は多様で、百田くんが大げさに驚く顔を見せたり、最原くんがサッと青くなった。とはいえ、百田くんは見た目に反して成績優秀だし、最原くんは見た目通りで成績優秀の生徒なのにどうしてだろうと思っていたのだが、まさかここまでのことを想定したわけじゃ、ない、よね?

――「ああ、大変だよ!ちゃん!オレってばまさかあの時のちゃんを信じたせいで満点が取れなかったよ!」「でも仕方ないよね、ちゃんが満点取れなかったら補講だなんて言ったんだから」「オレ以外はみんな満点で、オレ一人しか補講対象者だとしても決まりなら仕方ないね」「本当はこんな事してる場合じゃないけれどクソ忙しいオレも放課後に断腸の思いで参加するしか無いね!」――

「っで、でも、王馬くん、そこまで覚えてるのに……」
「えー!?それちゃんが言っちゃうんだ!オレ、ロボットじゃないからハードディスクに空きがあればいくらでも覚えてるなんてことないんだよ!?……ああでも、ヘッポコロボならバグ起きてクラッシュする可能性はあるか」

 多分これは私が最原くんに指摘された後、急ピッチで説明をやり直した時にキーボくんがかけてくれた「かしこまりました。大丈夫です、先程のデータは完全削除いたします!先生のヘッポコ具合もカバー出来ますよ!」という言葉のアンサーなのだろう。キーボくんが聞きもしないようなこんな場所でも王馬くんのロボット差別は光る。

 王馬くんが間違えたのは、彼の言うとおり、私が一度説明を間違えたところだった。それも私が間違いの説明をした通り、一字一句間違いないようにそのまま答えに書いてあったものだから、採点している途中というのに私も頭を抱えた。きっと、いや、絶対に、わざとだったからだ。それをどうして行うのかは分からないが、彼の言葉を借りるならば、これはきっと「つまらなくない」のだろう。

「うん、その、説明を間違えることは教師失格だということは重々承知で、本当に申し訳ないと思ってるから、もう王馬くんも今日は……」
「ただ謝るだけなら猿でも出来るんだよ?オレがしてほしいのは正しい教育なんだけど」
「ぐぅ……」
「まだ『ぐうの音』が出るなら弁解の余地あるの!?」と、王馬くんは目を輝かせるがある訳がない。

 今回の事は私が引き起こしたことだし、王馬くんが間違えてしまったことを、王馬くんがその後の訂正を覚えてないはずがないと断定して責めることは出来ない。『教師失格』という言葉は自分で言っておきながら噛み締めるようにじわじわと毒のように体中に回ってきた。王馬くんが正しいあまりに、私のポンコツ具合がもりもりと浮き出てくるのだ。私が変わらなきゃいけないのに、何も成長できていなくて、それが少々もどかしかった。

 彼は決して悪くない。それでも、無邪気にぶつけてくる正論がとても痛いんだ。そうやって、被害者ぶってしまう自分の花咲いた脳みそをどうにかして欲しい。何も出来ないくせに、痛みだけには敏感で、嫌になる。
 どんどんとひいてきた涙に安心しつつ、私は一度深く深呼吸をした。

「………分かりました。もう一度説明をするので、もう一度、聞いて下さいね」
「はーい、先生!」


 結局、やっぱり王馬くんはちゃんと説明は覚えていた。というのも、説明しようと口を開いた瞬間に、「もしかして、あ!これはオレの記憶違いならもう一度ちゃんに説明してもらいたいんだけどね?」と呼吸をおかず、丁寧な謙遜を交えながら完璧な回答を畳み掛けてきたのだ。

 それに安心したものの、あの王馬くんの補習が入ったことで一度説明を間違えていたという事実がどこかから漏れたようで、私はこってりと他の先生に絞られていた。これでも、希望ヶ峰学園には超高校級の幸運として入っていたはずなのに最近は今までずっと幸運で何とかなっていた事がなんともならなくなってきたような気がする。

 『超高校級の幸運』は全人類から幸運を計測して選ばれるわけじゃなく(そもそも何を基準に計測するんだって話なんだけども)、ただ抽選で選ばれたにすぎない。けれども、やっぱり人と話してて思うのは、人生において『運が良い人』『運が悪い人』という括りは必ずあると確信している。普段生きててちょっとしたラッキーというのは連発した方だったけれど、しかしながら思えばその幸運というのは私一人だけのものであり、誰かに影響出来るわけじゃない。私が一人で幸せだって誰かに連鎖出来るものでもないんだ。
 自分だけが生きていく道ではなく、導く立場になったのだから、私自身のラッキーなんてどうだっていい。

 とはいえ今回は、自分の注意不足。簡単な間違い。どうしても起こってしまったことではないのだから気をつけることは出来る。しかしでも、何でもかんでも気をつけることが出来ることなんてなく、せいぜい防止程度。

 本当、王馬くんで良かった。と思っている自分もいた。

「……ちゃん?」

 彼だったからこそ、まだ大事にならなかった。けれども、それは王馬くんに対してとても失礼な話だ。いくら王馬くんが頭の良い子だとしても、私より年下で、まだ学生で。たまにこれは計算じゃないかも、なんて思うような純粋な面だってある時もあるような気がしないでもない。
 それに、私の『教師の顔』なんてほとんど生徒しか見ていない。生徒が一番、何がダメで何が良いかを知っているんだ。だからこそ、生徒からの意見というものはとても貴重なものだろうと思うし、それが言える生徒というのは大切にしておくべきだろう。例えばこの目の前にいる、王馬くんのような。――あれ?

「――ちゃんってば!もう耳まで悪くしたなんて冗談やめてよね!?オレ、嘘大ッ嫌いなんだから!」
「………え、あ、……ん?いや私何も言ってないから……」
「あー良かった。とうとう頭の悪さが耳に到達したと思ったよ!」

 出会いがしらに怒鳴られるわ詰られるわ、あまりにひどい登場の仕方だが、これが王馬小吉の常なのだろう。気が付けば廊下のど真ん中に立ち止まっていた私は、同じく廊下のど真ん中で突っ立ってる王馬くんにいちゃもんつけられていた。
 こんなの一応、教師相手に言っている時点で指導対象ではあるのだが、王馬くんはかなり周りを見ているようで、そういったことを、そういった指導が出来る先生の前では絶対にこんな発言はしない。いや、いくら王馬くんといえども、問題児という枠組みには入っているだろうし、注意深く見られている方なのだが、それでも掻い潜り、掻い潜り、今日も生きている。例え問題児でも、現行犯逮捕でない限りは罰することは出来ないのだ。そういうところは本当に凄いと思う。
 これ以上問題行動されても堪らないということで、では、というように王馬くんから離れるようにニコニコと遠ざかろうとするが、対して彼も笑顔でついてきた。

「お、王馬くん、何か先生に用ですか?」
「用がなきゃ一緒にいちゃダメ……?オレ、ちゃんと昔みたいな関係でありたかったな……」
「うううん別に私たちそんな仲じゃなかったよね!」

 学年主任がいなくとも、周りには生徒がちらほらいる。必死になって否定してみたのだが、それは王馬くんの思うつぼだったのか、ますますまた適当なホラを吹き始めた。

「そんな……うん、そう、そうだよね…だってちゃんは初めて二人でお風呂に入った時に」
「もうほんと、王馬くんちょっと先生とそこの部屋入ろうか、お願いだから」
「ええ!だ、ダメだよ、オレとちゃんは今―――痛!ちょっとその力加減マジじゃん!ッいってぇ!」

 王馬くんを特別教室に押し込むことに成功した私は、とりあえずひと段落ついたかのように、肩で呼吸をして精神を落ち着かせていた。もちろん、こんなところに王馬くんを連れ込んだところで行うことは一つもないのだが、先ほどのように廊下で騒がれても本当に困る。

「それで?先生はこんな所にオレを連れ込んでどうするつもり?」

 こういう時しか私のことを『先生』と呼ばない王馬くんは悪い顔をして言った。

「何もしません!王馬くん、廊下は静かにね……」
「ほんっとにつまんないの!もうちょっとノってくれてもいいじゃん!」
「王馬くんのそのノリに乗ったら最後だと思ってるから……」

 あくまで冷静に返すと、王馬くんは笑った。「だよねー、ここでもしちゃんがノってきちゃったらオレ、腰抜かすところだったよ」

 それも見てみたい気はする、なんて一人考えていたけれど、それよりも先に言わなきゃいけないことを思い出して、私は口をあけた。丁度二人きりだからタイミングはここしかない。王馬くんは私が何を言わんとしているのか、理解しているような顔でこちらを見ている。

「王馬くん、この前は本当にすみませんでした」と、頭を下げたのだが、王馬くんはしゃがみ、その私の顔を下から覗いてきた。
「まだその話ぶり返すんだ。そんなに他の先生に怒られたのがきつかった?」
「な、なんで」
「あーダメダメ。こんな適当なカマかけに引っかかっちゃダメだよね」

 初歩的なミスをした。ここが家で一人だったのなら思わず頭を抱えてしまいそうなほど、単純なミスだ。一応職員室の奥の奥の方で怒られていたのだけれども、王馬くんなら知っていてもおかしくないと咄嗟に考えてしまったのが敗因だ。王馬くんは顔色を変えずに平気に嘘をつける天才だということを失念していた。
 とはいえ、そんなこと知られてしまったところで何があるわけでもなく、私の教師としての尊厳がちょっと失われるだけだ。そんなもの、もう残っているのかも分からないけれど。

「ま、でもさ、別にいいじゃん。ちゃんも反省してるんでしょ?」

 これじゃあ私が生徒で、王馬くんが教師だなと感じた。

「で、でもね、王馬くんもこんなの迷惑だよね」
「………オレがいつ言った?」
「だって、私が担任じゃなかったら、王馬くんだって、多分、」

 あまりに堂々しているものだから、私の方がしどろもどろになってしまう。王馬くんは常に意見を求めて来る。それに答えようと言葉を選びたいのだけれど、そんな時間を許してくれないような雰囲気に、私はつい頭に浮かんだ言葉を投げてしまう。とはいえ、今日も今日とて、言葉選びに失敗したようで、いつものニコニコとした顔じゃなくなった王馬くんを前に私は一人震えた。

「わか、わかってるよ。私のせいで、私じゃない人が教えてれば良かったなんて」
「―――人の話聞いてんの?」

 はっきりと王馬くんは言う。「ちゃんの悪いとこだよね、マジで、本当。そのネガティブなんとかした方いいよ」

「な、なんとかなってたら、こんなことには……」

 年下に責められている図というだけで泣きたくなるのに、それが学校という場だからこそ、ますます虚しくなる。というかもう王馬くんが年上だったら良かったのに。そうだったら今の全てに納得がいくのに。じ、と彼を見ていると、王馬くんは大げさにため息をついた。

「もーオレも謝るからさ、あーごめんね。全くさあ、めんどいよ今のちゃん」
「お、王馬くんが謝ることは何も………」
「でもちゃんも思ってるでしょ?オレのせいだって、ちょっとはさ」
「ウッ」
「アハハ!ダサい程わっかりやすー、そういうところつまらなくないよ!」

 全く褒められてはいないのだが、和らいだ空気にホッとした。こういうのもきっと王馬くんの才能だ。気がつけばまとめている。私よりずっと、上に立つことに慣れている。それに憧れ焦がれ、眩しくて見ることが出来ない。

「誰もがみんな初日から凄いわけじゃないんだしさ」
「………もう初日も何も……」と、窓の外を見る。もう外は桜の季節から既に青々とした色に変わっている。
「だから、ちゃんにとってはまだまだスタートラインってこと!」

 それを言われると、全てが許された気がして、胸がいっぱいになった。王馬くんは見てくれていた。それに安心している自分の小ささには泣けてくるけれど、こうやって成長していくんだと思った。そうやって強くなっていこう。

「だから、ね、ちゃん、オレの――」

 王馬くんは私に微笑みかけた。いつも言われた言葉だ。彼に所属してほしい、と。小さな時から。今じゃもうその才能が認められて、こんな大きい所に来てしまった。あんなごっこ遊びからついに彼は本当に、超高校級の総統になったのだ。彼がまだ小さな頃から見てきたのだから、みなは言わせない。

「うん」私は少し鼻を啜った。「入らない、無理」

「ええー!?何で!この流れでオレの秘密結社入らないって何!?思わせぶりな態度を取るなよな、この年増!」
「ほら!だから王馬くんの下には付かないって思ってるんだよ!」

 何もかもが100%の人に受けるものなんてない。王馬くんはきっと理想の上司だろうけれど、彼だってそう。色々と尊敬している部分も多いが、それは全て私のやり方とか、スタンスとは合っていない。多分、別の世界の人、にでも私は考えている。王馬くんはめちゃくちゃ凄いけれど、世界が違うから仕方ないカナ、みたいな。

 ふと視線を戻すと、王馬くんはまだ恨めがましいでこちらを見ていた。

「ぶっちゃけ年寄りで涙もろいちゃんなんていらないんだけどさーここまで断られると意地だよね」
「もっと良い事に時間使いなね……」
「だってちゃん、オレのこと嫌いって知ってるし……はあ……オレは大好きなのに……死んじゃおっかな……」
「………嫌いじゃないよ」

 実際に彼の秘密結社がどれほどまでいるのかなんて知らないけれど、そこに私が入る隙間なんてないだろう。既にもう完成されている彼の国。昔からそうだった。私だけがなんてことはない。それがとても安心出来た。

「なーんて、嘘だよー!」

 君の世界は遊園地のようで、私は遠くから見ていたいんだ。

箱庭にナイフを刺せ