「γ君」

 にへえ、と言うよく分からない効果音が笑い方だ。
 俺としてはまずなぜ、『にへえ』と言う言葉が俺自身の脳裏に映ったか謎だった。だが、奴は相変わらずの『にへえ』とした笑い方で俺の前に立つ。
 身の丈に合っていない長い羽織物が揺れた。

「γ君、ねえ、お話ししよう?」
「…アンタと話すことはねえ」
「そうだね。じゃあお昼を食べに行こ」
「……、残念だったな。さっき食った」

 大嘘だった。部署は違えど働く時間に大差なんて無い。だから昼休みに入る時間は仕事が立て込んでなければどこだって一緒だ。遅くなる事があっても、早まることはそうない。

 しかし腕時計を見ると、どうやら今は昼休みの時間から5分程しか経っていない。これではいくらアイツでも断る口実だと気付くだろう。まあ、俺が急いでいるって言うなら別だが。
 嘘を気付かれるのが嫌と言う訳ではない。見え透いた嘘を考えもなしに吐いてしまった事が嫌だ。しくじった、と舌打ちしたい気持ちをどうにか抑える。元々、昼を誘いにこうして俺の前に現れたのかもしれない。

 けれどそもそも、俺とコイツは話す話題なんてない。それにまず俺はコイツが嫌いだった。
 細かく上げるなら、後ろで束ねた黒い髪の毛とか、周りよりかは低身長な所、子供のような身の振る舞い。餓鬼は特別嫌いな訳ではないが、コイツは別だ。それからあの白い制服。ああ、ほらふわりとまた、長くて白い羽織は揺れる。ああ、誰かハサミを持ってきてくれ。

「そうなんだ。じゃあ食後のデザートでいいよ」

 ポーカーフェイスと呼ばれるものは、何十年間も生きている中で身に付けることが出来た方だとは思う、が、相当嫌いなものには、顔に出る方だと自覚している。
 しかしコイツは、そんな俺のうちも知らない顔で、『にへら』と笑ってやってくる。一度、本気で怒鳴った事があったが、その次の日だってやってきた。勿論その時の事は俺も、それからコイツも一切謝らなかった。何事もないかのように、話しかけてきたのだ。

 嫌いなんだ。餓鬼みたいな事を言っていられる年齢ではもうとっくに無いが、嫌いだからこいつのみんなが皆、嫌い。視界に映るのも、声が聞こえてくるのも嫌いだ。

「γ君、行かないの?」

 それから、もう断る理由の尽きた俺もイヤなんだ。


「……そのヘラヘラした笑い方止めろ」
「ん?γ君、これ美味しいよ。食べる?」
「…断る」

 食事中と言うのに、いやむしろ食事中だからと言うのか、奴は『にへえ』と言う笑い方をますます強めていた。視線を逸らしても、つるん、とパスタをすする音が耳に入る。それが無意味にも、ひどく不愉快だった。きっと、太猿や野猿相手になら芽生えない理不尽な感情。

「こんなに、美味しいのに」

 この社員食堂のような食堂には、大抵のミルフィオーレの部下はやってくる。…と、色んな奴は話すが、実質来ているのはホワイトスペル、さらに絞るなら目の前のコイツのような者のみだ。つまりは、神経が図太いというか、能天気な奴。それから、ホワイトスペル、ブラックスペルを『表向きは』嫌ってない奴ら。たまに、嫌いな奴を見かけるとソイツに餓鬼染みたイジメをする奴、陰口を言う奴。
 残念ながら互いに仲が良いとは言えない。笑顔で会話しつつも腹には何か抱えながら過ごしているんだ。しょうがない話である。俺だってそう来た事がなかった。

「…γ君はそれだけ?」

 俺は、自身の嘘を突き通すため、サラダのみを頼んだ。が、特別ベジタリアンな訳でもないのだから、空腹にレタスを押し込んでいる様は大層惨めな事だろう。食堂の誰かが丁寧に調理したであろう野菜が、どこか苦く感じた。
 無言で頷くと、奴はそれを見越したようにそちら側にあった一つの大きな皿をこちらに置いた。ドンと置いたのはパスタ。

「あげる」
「……遠慮しておく。…俺は、」
「一番大変なのはお昼後だよ。食べて」
「……」
「そだ、お金はいらないよ」

 それからにへえと笑った。楽しい訳、あるはずないなのに。

「カルボナーラは嫌い?こっちのペペロンチーノがいい?」

 餓鬼の癖に、と俺はいつも言いたくなるが、その前に口を閉じる。様々な匣が発見されている今、使いこなせる奴は皆戦士として使われている。もちろん、使いこなすなんて大の大人でも無理な時もあれば、幼子が容易にしてやる事も出来る。もちろん稀な話だが。
 誰かが言った戦闘は相性だと。

「アンタは…」

 そう、口を開いた瞬間に、ゾロゾロとホワイトスペルの集団が集まった。どいつもこいつも、俺を睨んでは目を逸らす。バレるようにやっているのか、無意識か。お返しに俺も睨み返そうとしたが、目の前のアイツを見て視線を下ろした。急にビクついた顔になってやがった。手に持っていたフォークを置いて、怯えた顔で辺りを見回す。

 元々いたホワイトスペルの奴等が退き、俺とコイツのテーブルはえらく広くなっていた。

様はまたこの様な者と…」
「が、γ君はγ君です。それに、わたしが、」

 黒目をグラグラと揺らして、焦点の定まってない目で部下を見る。声はまだ冷静さが残っていると言う所が評価する所か。俺はテーブルを叩きながら、立ち上がった。

「ああ、俺が勝手にあんたンとこのを引っ掛けてたんだよ、悪かったな」

 このやり取りは珍しいものではない。それから、このやり取りはコイツを庇う為にしている訳ではない。ただ、俺はコイツにノコノコ付いてきたと言う事実がどうしても嫌だった。まあ、俺がそうと言わなくとも妄信的なこの部下らは勝手にそう思ってくれるだろう。様はこんな輩と付き合うはずがない、わたくし達が何とかしてあげますよ、と。

「…γ君」

 呼び止めるようなアイツの声を聞きながら立ち去るのは、どうも好きではない。どれくらい好きではないかと言うと、きっと、二日酔いと同じくらいだ。


 俺は馬鹿だとも自覚している。まず、嫌いな奴と飯は食うわ話すわなんや。最終的には楽しければいい、なんて楽観的になっているかもしれない。だが愉快な事なんて一つもないじゃないか。アイツと関わるとロクな事なんて、ないのに。

 ただ、一つだけ良い事があったと言えば、アイツの持ってきた酒が旨かった事だけだ。俺がアイツに初めて怒鳴った日の次の日、アイツと話した後に俺の部屋の前に箱があったのだ。誰が寄越したなんて知らない。だが、きっとアイツからだろう。
 初めは、こんなもの開けるかと思っていたはずなのだが、悪酔いでもしたのかいつの間にか俺は箱を開けて酒の蓋を開けて飲んでいた。俺は馬鹿か。いや、馬鹿だ。

「やあ、γクン」

 俺は一瞬振り返るのを躊躇った。が、仮にもミルフィオーレのボス。嫌な顔は振り返る時に捨てて、適当に笑った。

「ああ、どうも」

 予想通り、そこには白蘭『様』が目を細めるように笑って、立っていた。大抵はこのビルの最上階で引き篭っているはずだが、こうして外出しているのは特別珍しい事でも悪い事でも、大した事でもない。時間的にも、食事を取りに出てきたのかもしれないし、もしかしたら抜け出して、世話係のナントカを困らせているだけだろう。

「こんなお昼時にどうしたの?それとももう食べ終わったのかな」
「…ええ、まあ。俺は食べるのが早いんでね」
「そう、僕なんてつい食事に時間かけちゃうから羨ましいよ」

 そういえばコイツが、『笑顔で会話しつつも腹には何か抱えながら過ごしている』奴らの筆頭かもしれない。どんなに部下が失敗しても暴言なんて吐かないし、殴りもしない。感情的な俺とは全く正反対。こういう奴が、新米部下からすれば理想の上司と言うものかもしれないけれど、少し頭がある奴だったら食えない上司と思う他ない。依頼は笑顔で断られ、要望は笑顔で切り捨てる。きっと、そんな奴だ。
 薄く、目を開いた。「──そういえば」

「食堂が騒がしかったみたいだね、どうしたんだろ」
「…へえ、トラブルでも起こったんでしょうか」
「さあ?でも、がいたから気になって、ね」
「アンタのお気に入りですしね」

 吐き捨てるように言った言葉を、白蘭は 笑うように「そう?」と聞き返す。対して、自然に笑うことが難しくなってきた俺は、こんな顔を見られないように視線を逸らした。

 白蘭のお気に入りのと言う女は、目立った戦闘能力も、いや寧ろ平凡レベルの戦闘能力もなく、全てコネなんだと噂されている。それには僻みも入っているかもしれないが、確かに、彼女が入隊してから、人の上に上がるまでそう時間はかからなかったし、その経緯に特別な事件も何も無い。第15部隊だった男が『何者か』に殺害され、その発表と同時に彼女が後を継ぐと言われたのだ。その、隊長であった男は色々と裏があると言われ続けていたのだから、内部の者にやられた可能性も、勿論外部もあった。一時妙な緊張感が漂ったが変な噂をしているのは下っ端ばかり。馬鹿らしくなって俺はさっさと忘れる事にした。

という女が隊長になると隊長会議で聞いた時、ヒラのヒラであった彼女が隊長になると言う事を部下は認めるはずがない、と俺を含め、きっとほとんど全ミルフィオーレファミリーが思っていたが、次の日にはもう既に取り巻きのように部下を従えて、彼女が歩く姿を数多くの人間に目撃されている。

 あの部下等は可笑しい奴らではなかった。あの時から可笑しくなったのだ。第15部隊デンテ…ディ…レオーネ部隊、前隊長が死んでから、アイツが隊長に新任してから。それから、も可笑しくなっている。アイツは、隊長になり始めの時は無表情な奴だった。それはまるであの人のようで、だけど今のコロコロ変わるアイツも、まるで以前のユニのようで。

「γクン、どうしたの?」

 ふいに、白蘭ではなくてアイツが視界に映った気がした。だけど、どう考えても見えるのは白蘭。声も、体格もまず性別も何もかも違うのに。「───ねえ」

「γクン、何を考えているの?」


「γ君」

 ハッと眼が覚めた気がした。よく分からねえ心臓の高鳴りを抑え、俺は声の方へ向く。アイツがいる。またあのよく分からない、『にへえ』とした笑顔を浮かべ、俺の前に立っている。それで俺はいつも通り不機嫌になったいたのだ。

「今日も、お昼一緒に食べよ」
「……今日も部下達がゾロゾロ来んだろ」
「今日は、今日は来ないよ」

 一瞬顔を固まらせ、早口で奴はそう言った。そして、スタスタと俺の前を通り過ぎる。振り返らないのは俺がついてくると思っているからだろうか。このまま、着いていかず立ち止まっていればなんとかなるんじゃないかと、俺はアイツの後姿を眺める事にした。
 が、しかしアイツは振り返った。デカい黒目が俺を見る。

「…部下達が来ないって、いねえって事か」
「うん。皆出張に行っちゃった。3日くらいいない」
「お前は行かないのか」
「…わたしがいなくても大丈夫、だから」

 思わず口から出そうになった言葉を飲み込む。お前がいなくて大丈夫なのか、お前がいないから大丈夫なのか。聞くまでもない事だ。あまり信じたくなかった事を、信じざるおえなくなったかもしれない。…だが決定打ではない。だけれど。

「γ君」

 急に立ち止まるもんだから、俺はそのまま足を進めてしまった。
 2メートルくらい、アイツと離れた所で俺は不審に思いつつ顔だけ後ろを見る。

「何だよ」
「…ねえ、どうしてさ、」
「……」
「…なんでもないや。忘れちゃった」

 そう言って、また歩き出した。なんでもないと言って、なんでもなさそうな顔をして、忘れたと言って、全て覚えてそうな顔をする。

 手を伸ばすのは俺じゃない。
 他にきっと誰か、誰かがいるはずだ。どうしたんだ、って言える奴がいるはずだ。もっと優しく接する事の出来る奴。そういう奴がきっといるんだ。手を伸ばすのは俺じゃないはずだ。きっとその人間は、コイツの事を大事に思っていて、何よりも大事にしている奴だ。俺がいるから心配ないと、言える奴なんだ。手を伸ばすのは俺じゃないんだ。俺じゃなくて、


、今日から君が第15部隊デンテ…ディ…レオーネ部隊隊長だよ」
「はい」
「それから、ちょっとこの人と話してくれないかな」
「はい」
「うん、服装も髪型も全部覚えた?明日からはずっとそうするんだよ」
「はい」
「やっぱこうしてると似てるね。ただもうちょっと、ユニの方が背が高いかな」
「はい」
「ふふ、そこまで頷かなくていいんだよ」


手を伸ばせるのは俺じゃないんだ。