「キミは良い経験をした!そう思えばいいじゃないか!」

 男はまるで人を馬鹿にするかのようにこの広くて白い部屋に十分に、いや、十二分に響き渡る大きな声でそう叫んだ。

 私の心の中のように、どんよりと薄暗い雲が怪しく広がる今日この日。本来ならこんな話を彼とする予定も、そんなつもりもなく、私はただ掃除をするためにこの部屋に入った。と言うのに、こんなしがない掃除婦と世間話以下の無駄話をしたがるなんて、ここの主人は大層暇なのだろう。とんだ迷惑な話だ。

「良いよ、凄く良い。僕そういうの大好きなんだ!」

 こちらのこの表情が見えてないのだろうか?しつこく話しかけてくる主人に、いっそのこと、このソファーを投げつけてしまおうかとまで考えるほどの苛立ちを抑え黙っていたが、いくら話したくない話題と言えど、主人を無視するのはこれからに響く、と思う。というかソファーなんて持ち上げられるはずがない。本末転倒。
 聞くのは一瞬の恥、聞かぬは一生の恥……意味合いは少し異なるが、とどのつまり今我慢すれば結果的に全て丸く収まるのだ。つまり私の今の任務は掃除なんかじゃない。我慢すること。

「だから……だから、何だと言うのですか、白蘭様」

 私は睨み付けたい気持ちを必死に抑えて、引きつった営業スマイルを主人である白蘭に向けた。こんな私の顔を正面から見たって、彼は顔色一つ変えない。

「何だっていう訳じゃないよ。そうだね、好奇心……そう、好奇心だ!」

 ああ、話したくない、話したくない!ああ、ああ、そんなに分かりやすいくらい顔に出ていたか?いや、出ていたのなら触れないのが紳士として至極当然の行為だ!
 それなのに、彼は出会って早々に「さあ、キミ、失恋したんだって?」といつものあの笑みのまま声かけてきたのだ。天気について話すかのような自然を装って、自然に静かに傷を抉る。まるで白蘭は静かなる肉食獣、なんて恥ずかしい事を考えた。

「あらら、もしかしてはまだご機嫌ナナメだったかな」ごめんね、と彼は変わらない笑顔。
「もちろんです。……それと、失礼ながらそれはデリカシーに欠ける発言だと思います」
「失礼、ん〜そうだね〜。僕ってば考えなしだからさ、ごめんね、気に障った?」

「思ってもない事を二度も言わなくていいです」私は彼の笑顔を見ないように、掃除に集中するふりをした。頭の中はもう彼への怒りと、図星にも『失恋でヘコんでいる私』への怒りでいっぱいで、気がつけば同じところを何度も何度も念入りに掃除していた。

 こんな強気な態度に出てはいるものの、何度も言うように彼・白蘭は主人で、私はしがない使用人だ。もちろんいつもはもっと淑やかに私語なんてしないでさっさと仕事を終わらせている。そう、いつもだったら。

「ねえ、聞かせてよ。君達の話!」
「………いや、ですよ。それに……白蘭様はその人知ってるんですか?」
「いいや?でもから聞くことで想像することは出来るよ」

 白蘭という男の部屋を掃除する。それだけが私の仕事だ。この縦にも横にも長いビルの、何部屋何十部屋あるであろうビルの一部屋を掃除するだけの簡単なお仕事だ。
 確かにこの部屋は広い。広いが、たった一部屋の広さなんて高が知れている。隅々まで掃除しようとしたって、まず白蘭自体が部屋を散らかさないし――菓子類などのゴミはよく散らかっているけど――、この部屋にはいつだって生活感がみられないのだ。

 たまに小さな紙ゴミなどはあるけれど、私室ではなく仕事部屋なのだから何だかんだ纏まっている。私服やらなんやらが散らかった私の部屋と比較してるのもあるけれど、本当に仕事する部屋というか、確かに私がいつも掃除する時間帯、白蘭が出かけた後とかは誰かいたなという形跡はいつもあるけれど、それでもどこか、この部屋は寂しい。
 白蘭はこのビルにいるときは大抵ここにはいるが、彼はよく外出をする。とりあえずこの部屋は匂いだとか、それこそただのフィーリングだが、あまり人がいると言うような雰囲気ではないのだ。さみしいへや。

「じゃあ仕方ないなあ。が話してくれないから、僕が勝手に想像してみるよ」
「変な趣味をお持ちですね」
「教える気になったかな?」
「まさか」

 ふ、とずっとはずしていた目線を上げて、彼を見てみたらじっとこっちを見ていたので私は思わずまた視線を下げた。白蘭の目というものは不思議なもので、生まれて初めてこんなにも見たくも見つめられたくもないと思ったのだ。

 本来、私の本業は学生、大学生で、この近く――という程近くはないが、しいていうならこの地区にある大学に通っている。そこでバイトを探してみたところ、たまたまこのビルの求人情報を見かけたという次第だ。噂ではなにやらここは裏に通じているだの、いけないものの売買をしているのだの、そんなのがあったけれど今の所とくに問題はないし何より高時給だ。嫌なところと言えば一つ、この上司以外ないのだ。

「――僕はね、晴れの日ばかりをいい天気と言うのが嫌いなんだ」

 白蘭がそう言って、窓を見るから、私もその大きな窓を見た。相も変わらず大きな窓だ。掃除が面倒だろう。だが、初めは梯子に登って窓を拭こうとしていたのだが、ここはここ専用の窓拭き機械――正しく名前がついているのだけど、ちょっと難しいから私はそう呼んでいた――があるのだと、梯子から下りれなくなってる私を見ながら白蘭は言っていたのでそれっきり、ずっとそれに頼っている。つまりは一番簡単な掃除場所だ。

「そう、なんですか……」
「ずっと晴れの日がいい訳じゃないし、雨の日が来なきゃ乾くだろう?」
「はあ、そうですね」
「それに、僕は雨の日の方が好きだよ」
「そうですか……。てことはそれは白蘭様の意見というだけで」
「うん、それだけ。ちなみにの事も好きだよ」
「……そうですか」天気と一緒ですか、とは言わないでおく。

 窓から見える空は、いつだってそこだけを四角く切り取ったような、そんな空で、あまり空を見上げるという機会がない私からすればなんだか空というものは四角いものだと最近は認識している気がした。それに写真だって、絵だって、ほとんどの空は四角いのだ。

「僕からすれば、何で君がそんなに凹んでいるのかが分からないなあ」
「………」
「ステキな事だと思うよ。失恋するって事はそれまでにストーリーがあったんだ!」そういうと、腕を上げてオーバーに「僕にはそれがないから尚更羨ましいよ!」と続けた。
「……嫌味、ですか」
「あれ、そう取っちゃうの?」

 確かに、白蘭という人物は顔はまあ、まあいいと思う。(というか普通に良い方だけど素直に褒めるのはとても癪だ。)だからこそ失恋したことがないとかと思うと、とても腹立たしかった。どんなものだって美しいものは得をするものだ。

「ねえ、だから教えてよ」ぐい、と白蘭は私のポニーテールを引っ張ったせいで私は振り向かざるを得なかった。色気のかけらもない。あってほしくもないけれど。
「知って、どうするんですか」
「僕が好きだから、それに、好奇心だよ」

 真っ直ぐと白蘭に「好き」と言われたものだから、一瞬動揺したけれど、こいつがすきなのは『失恋話』で、恐らく失恋というものをした事が無い白蘭にとってそれは一つの娯楽でしかないのだろう。ひどい話。ああ、ひどい話。
 幾ら顔がいいからと言ってだまされないぞ、という気持ちをこめて私は白蘭を睨むように見る。

「想像すればいいんじゃないですか」
「それじゃあ意味が無い」
「……想像するって言ったじゃないですか」
「君が変な趣味とかいうからやーめた!」
「それは……えっと、……申し訳ございません」
「やだなあ、嫌味とかじゃないよ?」

 つかめない笑顔を浮かべた。

「晴れの日ばかりがいい天気じゃないように、雨の日だってステキな日なんだ」
「……それは先ほども聞きました」
「そうだね、そう。……はそう思わないの?」
「どちらかと言えば、私は晴れの日の方が好きなので」
「日焼けしちゃうよ?」
「………。雪の日でも雪焼けはしますが」
「そうだね、太陽が悪いね」

 そんな白蘭の見当違いの発言を聞いて、私は絶句した。太陽が悪い、なんて比喩的すぎて、あまりにも子供発言だ。幾ら私達が嫌に思っていても太陽の光は降り注ぐし、雨は降るし、雲が出てくるし、雪は舞い降りる。雨乞いだの何だのあるけれど、そんなの意味はないだろう。霊的なものを信じていないからこんな事を言える。馬鹿程学問を馬鹿にするものだ。数学然り、倫理然り。だが信仰するのが良いことでも、まして悪いことでもない。その人が正しい教えだと思うものが、本当の正しい教えなのだ。人に左右されるなど言語道断。

「だから」

 白蘭はぎゅと私を抱きしめた。包み込むように抱きしめられているので、私は身動きがとれなくなった。白蘭の色素の薄い髪が私の首筋を撫ぜる。それがなんだかくすぐったくて私は思わず笑いそうになった。笑いそうになって、そして、少し身体を動かしたところで、私の頬から涙が、おちた。

「君は太陽しか見ていないんだ」
「……はあ」
「まぶしくてまぶしくて、そればっかりに憧れてる」

 比喩的すぎて、分かりにくい白蘭の言葉なのに、なぜか私の頭の中にスウーと入り込んだ。

「凄く嬉しいよ。君が、失恋して」
「……ひどいですね」
「ああ、どんなにひどいと言われても構わない!――これで」

 ふと見上げると、近すぎるからか、白蘭の瞳に光が見えなくて私は思わず震えた。後ろに下がろうとしたけれど、下がることは出来ない。私はただ彼の腕の中で震えている事しかできなくて、それをわらうかのように、白蘭はさらに笑みを深めた。

「これで、君の太陽は死んだ」
「……いみが、わかりません……」
「もっと知りたいよ、のこと。何だっていいんだ、どんな事でも。ねえ」
「びゃくら……」

 どうしてこんなに近くにいるのだとか、どうしてこんなに彼が私に対して興味があるだとか、その全てがありえないものにしか思えなくて私の頭はぼうとして、上手く働かない。これは夢なのだろうか。そうか、これは夢なんだ。こんな夢、覚めてしまえ。

「今日は良い天気だよ。こんな天気の日には、何か凄い事が起きなきゃいけない。僕の部下はね、僕の事を敬愛する悪魔だの、そんな事ばかり言うけどそんなの違うんだ。僕は神様なんだよ。だからね、。僕が太陽はいらないと言えば、いなくなるんだ」




太陽への追悼


(さもなくば天へ堕ちてしまいそうになる!)