★★★


 多分、僕は愛されているんだと思う。
 その自信がどこから来るのかと言えば、それはもう『勘』なのだけれど、きっと、きっと僕は愛されているんだと思う。彼女に殴られた頬はそりゃあまだヒリヒリとしてイタイけれど、それでも、そっといつの間にか部屋の前に置いてある救急箱は確実に彼女の優しさだ。そういえば、世間はそんなのをツン…ツンドラだかなんだか、そう呼ぶらしい。しかもその性格はギャップも…燃えだか何かで、人気があると言う。だったら彼女が、ねえさんが危ない!(悪漢とかその辺の意味で)と思ったのだが、そのツン…ドラゴンは特定の人にしか…ドラ?しないらしい。ドラって本当になんだろう。まあなんでもいいや。
 だからきっと、ねえさんは僕にしかドラしない。なら、大丈夫。他の人はただのツンには興味はないだろうから、きっと。あ、でも、もし相手がエムだかエルだったら、危ないかもしれない。『はあはあはあツンドラモエ〜』とか言うのがいるのかもしれない。襲われたら大変だ。…いや、でも、ねえさんは僕よりも強いし、というか、真面目にすげえから、大丈夫だ。ていうかやっぱりツンドラじゃない気がする。

「ねえさん?」

 僕はゆっくりと廊下を歩いて、シンとなってしまったドア全開のリビングに声を投げかける。さっきは(よく分かんないけど多分僕のせいで)喧嘩になっちゃって、僕が悪いから殴られて、部屋に押し込められていた。それから2時間は経っているし、部屋の前に救急箱があったからきっと、もうねえさんは怒ってないだろう。

「……きょーや君」
「何?」
「……ごめんね」
「ううん、気にしてないよ。僕が悪いんだから」

 そう言うと、ねえさんは困ったように笑う。きっとこれは、僕が言葉を選べなかったせいだ。罪悪感というか、自己嫌悪だ。なんでもっと、僕は大人じゃないのだろう。大人だったら多分、彼女が一発で笑顔になれるような言葉が言えるのに。

 この家には、僕とねえさんしかいない。まあ、家、というかマンションの一室なだけだけど。高校を出て、一人暮らしを始めようとするねえさんに、僕が無理を言って着いてきたこの家。二人で住むのには丁度いいけれど、大学生と中学生二人で住むには広すぎるかもしれない。でも、僕もねえさんも、お金はいっぱいあるから、何もこんな所でケチら無くても、という事で、ここ。それにコンビニが目の前にあって、歩いて一分もしない所に駅もある。住むにはとても良い場所だ。父さんも、母さんも、最初は認めてくれなかったけれど、僕がどうしても、と何度も言ったので許してくれた。ただここからだと並中が遠くなるのが難点だ。
 それに、ねえさんは本当に凄い人で、昔から僕がどう頑張っても、何も勝てなかった。勉強だって、スポーツだって、なんだって。彼女は凄い人なのだ。多分、これが神様に愛された子、なのだ。

 そんな彼女が、どうして僕に手を上げたかというと、それはつい先ほど、これからの話をしている時だった。もしかしたら、彼女に、自分に恋人が出来たとして、別に僕に出来た時はどうでもいいのだと思うのだけど、ねえさんに彼氏が出来たのなら、もしかしたら、本当に『もしかしたら』なのだけど、きっとねえさんはそっちに行ってしまう。だってもうねえさんは大人だ。だけど今は、ついこの間別れたらしいから、まだ、大丈夫だと彼女は笑って言っていた。
 むしろ、その別れた話以前に、付き合ってた人がいた話も知らなかった僕は、まさに頭を鈍器で殴られたような感覚に陥った。けれど、すぐに持ち直して思考を廻らす。多分、別れた理由は十中八九僕だろう。家に呼んだら僕がいるし、そっちの家に行くと言っても僕がここに一人ポツンと残っている状態。こんな所で威張って風紀委員長なんてやってるけど、社会的に言ってしまえば、僕は義務教育さえ終わってない糞餓鬼だ。弱者的考えは嫌、だけど、きっとねえさんは、そんな僕を置いてはいけないのだ。僕の大好きなねえさんは優しいから。
 僕なんてほっといていいよ、なんて、強がって掠れた声で言ってみたけれどそんな薄っぺらい嘘なんてねえさんはお見通しで、それでちょっと言い合った。
 多分、僕が悪い。僕が無理してここに居るのが、悪い。

「きょーや君、明日早いんでしょう?もう寝なさい」
「…ん、おやすみ」
「おやすみなさい」

 明日は日曜で、本当なら学校なんてない。でも、委員会の仕事、と無理を言えば行けるのだ。そんな、何故仕事をわざわざ作っていくのかと言うと、ねえさんのお弁当が食べれるからだ。彼女はいつも日曜日にバイトを入れていて、それは朝から夜までだから、お昼は自動的に僕が用意するしかない。だけど、学校だと言えば、彼女はお弁当を作ってくれる。そんなわざわざねえさんを使わすのはちょっと嫌だったけれど、僕はねえさんのお弁当が食べたいのだ。



★★★



 今日は快晴だった。正直、日本晴れという状態がどんな晴れなのか知らないけれど、きっと今日の朝の天気予報師は今日みたいな天気を日本晴れ、と無駄な笑顔で言うのだろう。
 そんなどうだっていい事を考えながら、ふわ、と欠伸を噛み殺して家を出る。バッグにはちゃんと、ねえさんのお弁当をまず最初に詰め込んだ。成長期なのにあんまり食欲の沸かない僕を心配して、でもこっそりとお弁当箱が大きくなっているのは知っている。やっぱり僕は愛されているんだ。そう考えると笑いが止まらなくなってしまうけれど、でも今は道を歩いているために下手にニヤニヤは出来ない。

 ところで、ねえさんが一番得意なお弁当のおかずは卵焼きで、一番不得意なお弁当のおかずも卵焼きだ。どういう意味かと言うと、彼女の作る卵焼きには当たりハズレがある。いつも分量が違うのか、えらく甘かったり、しょっぱかったり。でも、美味しいのは本当に美味しいのだ。だけどだけど、作ってもらえるのなら僕はなんでもいいけどね。

 気を取り直して、キチ、と顔を引き締めて、すました顔で歩いていると、公園の方から聞いたことのある声が聞こえた。「…だから、ね…」やっぱり、ねえさんだ。その声がどうにも、深刻そうだったからどうしても気になり、僕はゆっくりと近づいた。

…、まだ考え直してないのか?」
「…うん」

 ねえさんの目の前にいるのは、僕の知らない男で、話の内容からするに多分、モトカレというやつなのだろう。彼女はいつも元気そうな顔を項垂れて、申し訳なさそうに、というよりは、気まずそうな顔をしていた。明らかに修羅場な状況を、なぜか僕がハラハラしながら眺める。

「理由が…理由が分かんねえよ、家に帰らせればいいだろ」
「でも…、きょーや君、」

 やっぱり、僕のせいだったのだ。
 恐らく今の僕の顔は、あのモトカレのような鋭い顔じゃなくて、ねえさんみたいな頼りない顔になっているだろう。だって、彼氏が居た事にまず驚きだし、そんでいつの間にか証明されてるし、険悪なあのムードの最大の原因は僕だと言う事もある。平然な顔をしていられる方がどうかしている。

 モトカレは、ねえさんを見下ろした後、息をついてわらった。

「………分かったよ。一緒に暮らせなくていい」
「うん、…ごめんね」
「いいよ、がそうなのはいつもじゃん。俺こそごめんな」

 どうやら、解決らしい。呆気ない、と言うか、モトカレはねえさんの事をよく分かっているんだと僕は分かった。だって、そうじゃなきゃきっと、僕の悪口とか適当にでっち上げて言うだろう。ねえさんが一番嫌いなのはきっと、家族の悪口だって、知っているんだ。僕だけしか知らなかったねえさんを知って、いるんだ。

 ああ、これは嘘だ。嫌な嘘だろう。なんであんなに簡単に解決しているの。おかしいでしょ。僕って言う邪魔な存在がいるなら、僕の悪口でも言えばいいじゃん。そんで、ねえさんに嫌われてよ、ねえ。強引にねえさんを連れて行こうとして、殴られてよ。嫌ってよ、そんな奴。ねえさん、ねえ、早く別れてよ。

 僕はようやく、自分が何を考えていたのかを、理解する。
 最低な弟だ。なんて最低な男だ。ねえさんが一番嫌いな悪口を僕は何度も呟いていた。ねえさんが一番望んでいる事を全面否定してしまっていた。ああ、僕はどうしようもない。これでは救いようがない。

 ゆっくりと顔を上げると、もうねえさん達は居なくなっていた。

 僕は近くのベンチに腰を下ろすと、バッグのお弁当を取り出した。学校に行く気はない。それに、ここの人通りはいつも少ないから、邪魔されず自分のペースで食べれるだろう
 バンダナで包まれた、この前より少し大きい気がするお弁当箱を開く。今はまだ11時だから、お昼には早いけれど僕は箸を出した。
 そして、3つ仲良く置いてあった卵焼きの一つを口に含む。

「……しょっぱい…」



★★★



 僕は決心した。この家を出て行こう。
 この家と言うのは、このマンションの話で、別に雲雀家から出て行くわけじゃない。そこまで大それた事をしたって、きっとすぐ死ぬ。僕は社会的に見れば弱者だから。

 どんな尤もらしい理由を言おうか、と考えていると、玄関が開いた。勿論ねえさんだ。パタパタと足音を立ててちょっとご機嫌なねえさんは、一つの紙の箱を僕に見せる。いきなりだったから、初めはびっくりしたけれど、それはケーキのようだった。

「…何か、あったっけ」
「ううん!ただ嬉しいことがあったから、きょーや君にもおすそ分け」
「……ふーん…」

 彼女は決して、嬉しい時があったら何かを買ってきたりする。それがねえさん流の幸せのおすそ分けと言うものなのだが、僕としてみればケーキがあるからって大喜びはしない。でも、ねえさんがおすそ分けしてくれるなら、幸せになれる気がしてきた。でも、だけど、この幸せは、あの昼の幸せだ。どうも、食べる気がしない。

「僕、いらない」
「そう?じゃあ冷やしておくね」

 そう言って、ねえさんは箱を冷蔵庫にしまう。いつだった聞いたけど、幸せのおすそ分けだから、今彼女一人が食べてしまったら駄目なそうだ。
 そして、ねえさんが後ろを向いてしまっている時を狙って、僕は口を開く。

「ねえさん、僕出て行く事にした」
「……え?」
「荷物は纏めたから、後は出て行くだけ」

 止めないで、と心の中で言う。止められたら僕はきっと迷うから。泣きたそうな笑顔で「行かないで」なんて言われたら、うん、って頷いて、ケーキを一緒に食べてしまうから。一番止めてもらいたいのは僕だから、僕は言わない。
 冷蔵庫を開けたまま、ねえさんは振り返った。予想通り、驚いた顔。

「どうして…?」
「…やっぱり、僕は迷惑だと思うんだ」
「そんな事…」
「あるよね?だって、僕のせいでやりたい事とか、あるだろうし」

 僕は卑怯者だ。僕自身が出て行きたい、って一言言えばねえさんはきっと諦めてくれるのに。僕は出て行きたくないって、こっそり言葉に付け加えている。

「きょーや君」

 まっすぐと、ねえさんは僕を見た。だめだ、いわないでそのさきを。

「ここを出て行きたいのね?」
「う、ん」
「じゃあ、いいよ」

 平然と、彼女は言う。僕は、足元がすっぽりどこかに抜けた気がした。いつもなら真っ直ぐ立っていられるのに、今じゃ無理だ。グラグラとふらつく。

 そんな僕を放っといて、ねえさんは最後の支度をする。荷物は纏めた、と言っても今日中にすぐに出て行くわけじゃなかったから、歯ブラシとか、パジャマとかはそのままだ。
 テキパキとした手で、いらなくなった僕のものをダイニングテーブルの上に置く。
 終わった、と思った。いや、もうこの世のお終いだ。

「きょーや君」

 もう一度ねえさんは言う。

「出て、行きたいのね?」
「……」
「お姉ちゃんは、きょーや君が好きだから止めないよ」
「……ヤ、だ」

 振り絞るように、ゴミのようなプライドなんて捨てて、僕は首を振る。嫌だと言ってなんとかなるのなら僕は地面に両膝額両手を伏せたっていい。
 出て行きたくない。本当ならずっと、どんな邪魔したってねえさんの傍に在りたい。優しいねえさんだから、きっとソレが可能なはずだった。それなのに、それを僕は言えずに、言えずに強引な手を使った。いつか追い出されるなら、自分から出て行こうと。もし止められたら、次に追い出されるときにその話題を出せばいい。今度も僕を捨てないで、と。

「…良かった」

 顔をあげると、ポロポロと泣き出したねえさんの顔があった。
(どうやら、この手を使わなくていいのかもしれない。)



★★★



 プチ家出騒動から一週間が経った。結局はねえさんは僕に鎌をかけていたようだった。でも、本当に出て行くのなら止めたくはなかった、そうで。だから、自分から行動して、僕がどう出るかと言うのを見ていたと言う。やっぱり、姉さんは凄い人だ。感心する。

 今日である日曜日はねえさんはモトカレ(…では無いのか)とデートだそうで、僕はそれをすぐに察し、だから、今日は委員会がないからお弁当はいいと言っておいた。お昼は草壁辺りをパシらせよう。でもアイツにこの前昼を頼んだら、マジで弁当を作ってきた時があって、あれは驚いた。あの顔でひよこのお弁当箱。冗談だろ。しかも味は気持ち悪いほど美味しくて逆に吐きそうになった。

 そんなこんな、朝食のご飯を食べながら考えていると、ねえさんは僕の隣を駈けるように走る。見事に遅刻だそうだ。それを見届けて過ごすのも、なかなか面白い。

 何気なくベランダに出ると、下にはねえさんと、あの彼氏が居た。車持ちだ。うぜえ。
 そして、一言二言会話してから、ねえさんは車に入ると、車はすぐに出発して、すぐに見えなくなった。あっちの道はどこに繋がっているのかよく分からない。

 僕はなんだか遣る瀬無くなるやら、なんやらで、とりあえず目を伏せた。

掴み取れない光速