「お、おい!どうしたんだ!」
「あー………烏間先、生………」
教室の真ん中でぶっ倒れている私の元へ先生が駆けつけた。今は放課後で、正直まさかここへやってくる人が来るとは思わなかったし、それが烏間先生だというのも大穴中の大穴だった。きっと少女漫画とかだったらここで抱き起こしてくれて、キュン…なんてのも欲しい所だけど、烏間先生はきっと私がどうして倒れているのか分からないから動かす訳にはいかないのだろう。
しゃがんで、私の顔が見えるように顔面にかかっている髪を烏間先生の指が払った。
「頭を打った――訳じゃないな」
「………なさ…………」
正直言うとここまで真正面に烏間先生を見たことはない。いつもキリッとしている顔のままではあるけれど、真剣に私の事を心配している表情をしてくれている。二重で凄いレアだなあと眺めていたいけれど、片や先生の顔はそりゃガチ中のガチだから、少し申し訳もなくなってくる。しかし、きっと今私がしょんぼり顔をすればするほど先生は心配するのかなと思った。「ごめ……なさい………」
「何があったんだ?」
説明したいのに上手く頭も口も回らない。とにかく謝ろうという気持ちが先行してしまって、これでは駄目だと思っていても気がつけば壊れたおもちゃのように繰り返してしまうのだ。
やっぱり駄目だった。失敗の恐れがあったらからこそこんな人気のない放課後で試したのに、こんなかっこ悪いところ、誰にも、まして烏間先生になんて見られたくなかったのに。生徒なんてこうやって失敗して成長するものなんだとなぜか私を励ます言葉が出てきた。
そんな私に落ち着けというのか、先生は私の頭に手を置いた。切羽詰まっているその顔といい、不慣れなこの撫で方といい、こういう事は本当に似合わない。烏間先生はいつだって前を向いてキリッとしてもらいたい。右か左かで迷わないで、もういっそ真ん中向かっちゃうような、そんな潔さで堂々としてもらいたいなあ、と、また脱線してしまった。
言わなきゃ。言わなきゃ。伝えようと思っているのに、もう烏間先生のこの心配顔はこれ以上はお腹いっぱいだから私は大丈夫(じゃないけどまあ大丈夫)だって言いたいのに、なかなか回復してくれない。こんな時にまた都合よく誰か――なんて思っていると、ハイヒール特有の高い音が聞こえた。
「ちょっと教室に誰か―――え」
「え、何これ」と、倒れている私と烏間先生をイリーナ・イェラビッチ先生――通称ビッチ先生が目を丸くした。ビッチ先生はコロコロと表情を変えるけれど、いつも見ているような怒ってるとか調子乗ってるとかそういう顔なんかじゃなくて、言葉の通り、本当「何これ」の顔をしたのは、ほんの数秒で、何気なしに隅に溢れ転がるペットボトルを発見すると、大きな目をさらに大きくさせて叫んだ。「!あんたまさか、」
「筋弛緩剤飲んだの?!」
*
難しい事なんて何もない。簡単な事だった。
まず私は、前にビッチ先生が烏間先生に仕込んだ筋弛緩剤というものがどのくらい強力なのか、――3Eの暗殺者的には殺せんせーにどのくらい有力なのか――気になりビッチ先生に頼みこんで貰ったのだ。私はクラスの中では静かな方だし、こんなバカみたいな事をするとは思ってなかったのだろう。最初はさすがに渋い顔をされたが、さり気なく褒めたり何だりしたらスルリと貰えた。
ビッチ先生は軽いっちゃ軽いけれど、しっかりしている人ではある。だけど、ビッチ先生のコミュスキルが発動するのは同じ立場か上の人に対する人への接し方のみで、私達のような年下の中学生は彼女にとってイレギュラーだ。距離を掴めないでいる感はまだひしひしと感じるのだ。悪い言い方をすれば、そこを突けばもう簡単だ。
初めはもちろん、飲む気で貰った訳じゃない。ただ思えば前に奥田さんが殺せんせーに水酸化ナトリウムとか酢酸タリウムとか飲ませてたなあというのを貰った後で思い出し、もしかしたらこのままじゃ使えない事に気付いて、どうしようかな、と考えた時に、「実はこれもそう大した事ないのでは?」なんて思ってしまったのだ。感覚は大分麻痺していたのだろう。好奇心は猫をもとやらか。不幸中の幸いというべきか、ビッチ先生からもらったものは即効性ではあったけれど、その分すぐに抜けた。実際そこまで飲んだ訳でもなく、ショックでぶっ倒れていたのもあった。
「……」
烏間先生は自衛隊出身なだけあって、上下関係には厳しい。が、私達3Eには同じ暗殺者として対等に接しているのか、それとも教師としてだからか、乱暴な口言いはしないし、呼び方もそうだ。よく喋る機会があるからか潮田だけは確か名前呼びだが、他は苗字にちゃんと敬称をつける。男子なら「君」で、女子なら「さん」。何だかんだそう呼んでくれる男性教師というのは珍しいと私は呼ばれる度に思っていた。(殺せんせーも男性の枠組みにいれるならそのレアの一員だけど)(ていうか殺せんせー自体がレアなんだけども)
その先生が呼び捨てにしてるという時点で私への呆れ具合が伺えた。
「君にコレ以上はもう俺からは言わないが、二度と自分を試すな」
「そうよ。ほんと、しかも原液だなんて……」
今私とビッチ先生は正座して烏間先生のお説教を受けていた。間抜けな事をしたのは私一人だったのだが、その入手元をさすがに誤魔化す事は出来ず、正直に話した結果がこれだったのだ。「イリーナ」
「俺はお前の軽薄さをまだ許してはいないからな」同じ教師としてか、ビッチ先生にはデフォルトで呼び捨てだし、「君」という二人称ではなく「お前」と言うし、基本厳しい。
「は!?何でよ!私はくれって言われたから"暗殺者"としてこの子にあげただけよ!」
「管理不届きだ」
スッパリと烏間先生はビッチ先生の主張をぶった切った。それに対してビッチ先生は反論するが、全て管理不届きという言葉に行き着くようで、彼女を煽てて煽てて、戦略的に貰った私は可哀想に見えてきた。
「いや……その、私が飲んじゃったせいなので……ビッチ先生は……」
「ほらぁ!」
「…………はあ。分かった。二人共、"俺からは言わない"」
先ほど言ったような言葉をもう一度言った。……あれ、この言葉はもう許した!いいよ!って意味だと思っていたのだけれど、どうやらそんな様子はないようで、嫌な感じがした。とにかく烏間先生からはもう何もないとして、後、ビッチ先生は怒られる立場っぽいし、他と言えば、――あ。
「こ、殺せんせーに何て言われるか……」
ボソッと呟くとビッチ先生が震えた。
「っあいつにまたあんな事されるのは嫌よ!」あんな事、というのは彼女が来た頃にされた事だろう。殺せんせー曰く、ただ健康的にマッサージをされたらしいが、どこをどこまでされたのか、深くは知らない。大人の都合らしい。
「嫌だと言われても俺からどうと出来る問題じゃない」
「この事は秘密にしましょ!?ね!ね!!」
「………殺せんせーにはいつかバレそうですけど……」
「アンタ達二人が黙っていれば問題ないのよ!」
と、ビッチ先生は言うが、この今日の事は言わなくてもどこかで殺せんせーは聞いてそうだ。いつもどこで寝泊まりしてるのかなんて知らないけれど、マッハ20があればすいすいだ。
だがとにかく今日はもう烏間先生から何も言われない、ということでビッチ先生は立ち上がり、帰って行った。それに引き続くように私も立ち上がるけれども、慣れない正座をしたせいか、フラついて、机に手をかけ、ようとしたのだが、それより先に烏間先生が私の肩に手を置いた。
「大丈夫か。まだ残っているのか?」
「あ……いや、多分正座です。たぶん」恨めしく見るが効果はないようだ。
「……そうか。とりあえず今日は送ろう。暗くなってしまったし、帰り道で倒れられたら助ける術がない」
ああ、烏間先生は車か。と躊躇いがちに見上げた。もう慣れてしまったけれど、最寄りのバス停まで1キロの山道を超えなければつかない。行きはともかく帰りは下りだから、そこまで体力が居る訳ではないが、ぼーっとしている時は転びやすい。
お説教や、私の回復を待っている内にもうすっかり夜になってしまったようで、確かに教室の電気が眩しいなとは思っていた。メール入っているかな、とスマホを見たけれど、そういえば今日はたまたま親が出かける日だったのだ。今日は何だか色々と都合が重なるなと思った。
「……大丈夫ですよ。もうすっかり抜けたみたい、ですし」
「そうか。だが、決断するのは俺の役割だ」
「まじですか」
「大マジだ」
烏間先生は意外とノリがいい。
*
「先生って何が出来ないんですか」
ハンドルを切る烏間先生に私は何となしの質問を投げかけた。
「は?」先生はこちらをチラリと見た。
「……先生って何でも出来るイメージがあって」
「そうか?そうでもないと思うが」
「経歴とかも、何か凄いし、あ、そういえば教員免許持ってるんですか?」
「なければ副担任になれないだろう」
しかも表向きには担任である。そうですか、と私は頷く。
先生の車から見る町並みはどこか違う世界に見えるな、と私は思った。私の家は多分E組では一番遠い所にあるせいで、もしくはおかげで、結構長い間乗る羽目になるだろう。ほんとは最寄りの駅でいいと言ったものの、最寄りの駅から30分くらい歩くだけ、と口を滑らせたせいで恐らくこのまま家までコースだろう。楽だからありがたいものの、やっぱり少し居心地が悪い。
いつだったか潮田が烏間先生の真っ直ぐとした視線が好きだと言っていたような気がするけれど、私は彼のそういうところが苦手だ。いや、いや、勿論真っ直ぐを見てもらいたいんだけれど、私を見ないで欲しい。気はして欲しいけれど、私はきっと先生の期待通りの事も何も出来ないからただ誰かの後ろにいたい。
「ハイスペックってやつですね」
「……それを言うならあのタコの方じゃないか」
「殺せんせーは弱点多いですよ」
巨乳とか女子大生とか。
「その調子で弱点見つけて頑張ってもらいたい所だな」
「烏間先生は私達が殺せると思ってるんですか?」
「……それを全力でアシストするのが俺の仕事だ」
少し、煮え切らない答えだ。烏間先生はありきたりな「やれば出来る」という言葉を使わない。彼の人生なんてほんの少ししか知らないけれど、経験とそれに伴う実績を持ちえる人物なのは確かだ。その中で脱落していく人だって多くみただろう。
前に半日だけこのクラスの面倒を見た鷹岡明という防衛省の男性はそんな烏間先生に対抗心を持っていたという。鷹岡先生の教育方針を知らず、驚いた烏間先生の様子から色々と察する事が出来る。きっと同期の鷹岡明という人間は知っていても、独裁的な制裁を与える鷹岡明教官なんて知りもしなかったのだ。
「じゃあ好きなものとか、嫌いなものはありますか」
「……今日の君はよく喋るな」皮肉ではなく、本当に驚いたように先生は言う。
「………調子乗ってスミマセン」
「いや、悪い事じゃない」少し間を置いた。「だが好き嫌いか……。特にはないな」
たまにクラスでどこか行くときに烏間先生は食べ物を奢ったり(ちなみに年中金欠の殺せんせーも参加しようとするけれどいつも断られている)しているけれど、確かに、先生自身がコレを食べたいアレをしたい等と主張した事はなかった。そりゃ、大人だから遠慮しているのかもしれないけれど周りの殺せんせーとかビッチ先生が自由奔放だからこそ余計に目立つ。
「さんは何かあるのか?」
「え……うーん……」自分でしといてだけど、この質問は範囲が広すぎて何を答えたらいいか分からない優しくない質問だなと今気付いた。「と、と、豚トロが好きです。おいしい」
「豚トロ?」
烏間先生はポカンとした。美味しいって何だよ!そりゃ美味しいけどさ!と自身にツッコミを入れた瞬間に烏間先生は肩を震わせて静かに笑った。今は丁度赤信号になったばかりで、前を見なくても大丈夫だった。その様子に今度は私がポカンとした。笑うんだ、この人。
「っそうか、そうか……焼肉行ったら確かに頼むな」
「よ、よかった。先生も好きですか」何が良かったのかも分からない。
「そうだな。好んで食べているだろう」
いつかE組で焼肉もいいんじゃないかなとそんな話をしようとしたけれど、気がつけば私の家周辺についていたようで、見覚えのある道が見えた。「あ、そこ曲がったらうちなので、ここで大丈夫です」
「ここから30分歩く事はないよな」先生はよく覚えていたようだ。
「走ったら30秒です」
「分かった」
曲がり角に留めた。
肉の話をしたせいですっかり肉の口になってしまったが、きっと夕飯は魚だろう。昨日肉だったような気がする。それでももう夕飯時を過ぎているせいでしっかりとお腹はすいているし、何でも美味しく食べる事は出来るはずだ。
「烏間先生、ここまでスミマセン。ありがとうございました」
「今度から危ない事は絶対にしないように」
「……ハイ」
とは言え、少しは無理をしたい年頃だ。あと一年もない。私達が成果を出さなきゃ烏間先生、や、ビッチ先生がここまで来た意味がなくなってしまう。返事が遅い私を烏間先生はじっと見たので、私はもう一度「大丈夫です。ヤバそうな時は今度は先生に報告します」と返事した。
「事前にだからな」
「了解です」
車のドアを開けて外気に触れる。涼しくて、とても過ごしやすい気候だった。ちょっとばかし風が強くて髪がぐちゃぐちゃになるのだけはNGだったけれども。
「それじゃ、さん」烏間先生は窓ガラスを開けた。「おやすみ」
「え、あ、はい、おやすみなさい」
そして先生の車は元来た道を戻っていった。珍しい車とか、そういう訳じゃなかったけれど、先生を乗せたあの車がこの道を走っているというと、凄く違和感を覚えた。やはり、先生の車はどこか異世界を走っているのかもしれない。今日、私はそれにご一緒出来たことはきっと奇跡的に光栄な事ではあるけれど、ただ単に偶然な事でもあるからコレっきりではないはず。だからいつかまたこの体験をしてみたいな、とこの曇り空に少しだけ願った。
「あー………烏間先、生………」
教室の真ん中でぶっ倒れている私の元へ先生が駆けつけた。今は放課後で、正直まさかここへやってくる人が来るとは思わなかったし、それが烏間先生だというのも大穴中の大穴だった。きっと少女漫画とかだったらここで抱き起こしてくれて、キュン…なんてのも欲しい所だけど、烏間先生はきっと私がどうして倒れているのか分からないから動かす訳にはいかないのだろう。
しゃがんで、私の顔が見えるように顔面にかかっている髪を烏間先生の指が払った。
「頭を打った――訳じゃないな」
「………なさ…………」
正直言うとここまで真正面に烏間先生を見たことはない。いつもキリッとしている顔のままではあるけれど、真剣に私の事を心配している表情をしてくれている。二重で凄いレアだなあと眺めていたいけれど、片や先生の顔はそりゃガチ中のガチだから、少し申し訳もなくなってくる。しかし、きっと今私がしょんぼり顔をすればするほど先生は心配するのかなと思った。「ごめ……なさい………」
「何があったんだ?」
説明したいのに上手く頭も口も回らない。とにかく謝ろうという気持ちが先行してしまって、これでは駄目だと思っていても気がつけば壊れたおもちゃのように繰り返してしまうのだ。
やっぱり駄目だった。失敗の恐れがあったらからこそこんな人気のない放課後で試したのに、こんなかっこ悪いところ、誰にも、まして烏間先生になんて見られたくなかったのに。生徒なんてこうやって失敗して成長するものなんだとなぜか私を励ます言葉が出てきた。
そんな私に落ち着けというのか、先生は私の頭に手を置いた。切羽詰まっているその顔といい、不慣れなこの撫で方といい、こういう事は本当に似合わない。烏間先生はいつだって前を向いてキリッとしてもらいたい。右か左かで迷わないで、もういっそ真ん中向かっちゃうような、そんな潔さで堂々としてもらいたいなあ、と、また脱線してしまった。
言わなきゃ。言わなきゃ。伝えようと思っているのに、もう烏間先生のこの心配顔はこれ以上はお腹いっぱいだから私は大丈夫(じゃないけどまあ大丈夫)だって言いたいのに、なかなか回復してくれない。こんな時にまた都合よく誰か――なんて思っていると、ハイヒール特有の高い音が聞こえた。
「ちょっと教室に誰か―――え」
「え、何これ」と、倒れている私と烏間先生をイリーナ・イェラビッチ先生――通称ビッチ先生が目を丸くした。ビッチ先生はコロコロと表情を変えるけれど、いつも見ているような怒ってるとか調子乗ってるとかそういう顔なんかじゃなくて、言葉の通り、本当「何これ」の顔をしたのは、ほんの数秒で、何気なしに隅に溢れ転がるペットボトルを発見すると、大きな目をさらに大きくさせて叫んだ。「!あんたまさか、」
「筋弛緩剤飲んだの?!」
難しい事なんて何もない。簡単な事だった。
まず私は、前にビッチ先生が烏間先生に仕込んだ筋弛緩剤というものがどのくらい強力なのか、――3Eの暗殺者的には殺せんせーにどのくらい有力なのか――気になりビッチ先生に頼みこんで貰ったのだ。私はクラスの中では静かな方だし、こんなバカみたいな事をするとは思ってなかったのだろう。最初はさすがに渋い顔をされたが、さり気なく褒めたり何だりしたらスルリと貰えた。
ビッチ先生は軽いっちゃ軽いけれど、しっかりしている人ではある。だけど、ビッチ先生のコミュスキルが発動するのは同じ立場か上の人に対する人への接し方のみで、私達のような年下の中学生は彼女にとってイレギュラーだ。距離を掴めないでいる感はまだひしひしと感じるのだ。悪い言い方をすれば、そこを突けばもう簡単だ。
初めはもちろん、飲む気で貰った訳じゃない。ただ思えば前に奥田さんが殺せんせーに水酸化ナトリウムとか酢酸タリウムとか飲ませてたなあというのを貰った後で思い出し、もしかしたらこのままじゃ使えない事に気付いて、どうしようかな、と考えた時に、「実はこれもそう大した事ないのでは?」なんて思ってしまったのだ。感覚は大分麻痺していたのだろう。好奇心は猫をもとやらか。不幸中の幸いというべきか、ビッチ先生からもらったものは即効性ではあったけれど、その分すぐに抜けた。実際そこまで飲んだ訳でもなく、ショックでぶっ倒れていたのもあった。
「……」
烏間先生は自衛隊出身なだけあって、上下関係には厳しい。が、私達3Eには同じ暗殺者として対等に接しているのか、それとも教師としてだからか、乱暴な口言いはしないし、呼び方もそうだ。よく喋る機会があるからか潮田だけは確か名前呼びだが、他は苗字にちゃんと敬称をつける。男子なら「君」で、女子なら「さん」。何だかんだそう呼んでくれる男性教師というのは珍しいと私は呼ばれる度に思っていた。(殺せんせーも男性の枠組みにいれるならそのレアの一員だけど)(ていうか殺せんせー自体がレアなんだけども)
その先生が呼び捨てにしてるという時点で私への呆れ具合が伺えた。
「君にコレ以上はもう俺からは言わないが、二度と自分を試すな」
「そうよ。ほんと、しかも原液だなんて……」
今私とビッチ先生は正座して烏間先生のお説教を受けていた。間抜けな事をしたのは私一人だったのだが、その入手元をさすがに誤魔化す事は出来ず、正直に話した結果がこれだったのだ。「イリーナ」
「俺はお前の軽薄さをまだ許してはいないからな」同じ教師としてか、ビッチ先生にはデフォルトで呼び捨てだし、「君」という二人称ではなく「お前」と言うし、基本厳しい。
「は!?何でよ!私はくれって言われたから"暗殺者"としてこの子にあげただけよ!」
「管理不届きだ」
スッパリと烏間先生はビッチ先生の主張をぶった切った。それに対してビッチ先生は反論するが、全て管理不届きという言葉に行き着くようで、彼女を煽てて煽てて、戦略的に貰った私は可哀想に見えてきた。
「いや……その、私が飲んじゃったせいなので……ビッチ先生は……」
「ほらぁ!」
「…………はあ。分かった。二人共、"俺からは言わない"」
先ほど言ったような言葉をもう一度言った。……あれ、この言葉はもう許した!いいよ!って意味だと思っていたのだけれど、どうやらそんな様子はないようで、嫌な感じがした。とにかく烏間先生からはもう何もないとして、後、ビッチ先生は怒られる立場っぽいし、他と言えば、――あ。
「こ、殺せんせーに何て言われるか……」
ボソッと呟くとビッチ先生が震えた。
「っあいつにまたあんな事されるのは嫌よ!」あんな事、というのは彼女が来た頃にされた事だろう。殺せんせー曰く、ただ健康的にマッサージをされたらしいが、どこをどこまでされたのか、深くは知らない。大人の都合らしい。
「嫌だと言われても俺からどうと出来る問題じゃない」
「この事は秘密にしましょ!?ね!ね!!」
「………殺せんせーにはいつかバレそうですけど……」
「アンタ達二人が黙っていれば問題ないのよ!」
と、ビッチ先生は言うが、この今日の事は言わなくてもどこかで殺せんせーは聞いてそうだ。いつもどこで寝泊まりしてるのかなんて知らないけれど、マッハ20があればすいすいだ。
だがとにかく今日はもう烏間先生から何も言われない、ということでビッチ先生は立ち上がり、帰って行った。それに引き続くように私も立ち上がるけれども、慣れない正座をしたせいか、フラついて、机に手をかけ、ようとしたのだが、それより先に烏間先生が私の肩に手を置いた。
「大丈夫か。まだ残っているのか?」
「あ……いや、多分正座です。たぶん」恨めしく見るが効果はないようだ。
「……そうか。とりあえず今日は送ろう。暗くなってしまったし、帰り道で倒れられたら助ける術がない」
ああ、烏間先生は車か。と躊躇いがちに見上げた。もう慣れてしまったけれど、最寄りのバス停まで1キロの山道を超えなければつかない。行きはともかく帰りは下りだから、そこまで体力が居る訳ではないが、ぼーっとしている時は転びやすい。
お説教や、私の回復を待っている内にもうすっかり夜になってしまったようで、確かに教室の電気が眩しいなとは思っていた。メール入っているかな、とスマホを見たけれど、そういえば今日はたまたま親が出かける日だったのだ。今日は何だか色々と都合が重なるなと思った。
「……大丈夫ですよ。もうすっかり抜けたみたい、ですし」
「そうか。だが、決断するのは俺の役割だ」
「まじですか」
「大マジだ」
烏間先生は意外とノリがいい。
「先生って何が出来ないんですか」
ハンドルを切る烏間先生に私は何となしの質問を投げかけた。
「は?」先生はこちらをチラリと見た。
「……先生って何でも出来るイメージがあって」
「そうか?そうでもないと思うが」
「経歴とかも、何か凄いし、あ、そういえば教員免許持ってるんですか?」
「なければ副担任になれないだろう」
しかも表向きには担任である。そうですか、と私は頷く。
先生の車から見る町並みはどこか違う世界に見えるな、と私は思った。私の家は多分E組では一番遠い所にあるせいで、もしくはおかげで、結構長い間乗る羽目になるだろう。ほんとは最寄りの駅でいいと言ったものの、最寄りの駅から30分くらい歩くだけ、と口を滑らせたせいで恐らくこのまま家までコースだろう。楽だからありがたいものの、やっぱり少し居心地が悪い。
いつだったか潮田が烏間先生の真っ直ぐとした視線が好きだと言っていたような気がするけれど、私は彼のそういうところが苦手だ。いや、いや、勿論真っ直ぐを見てもらいたいんだけれど、私を見ないで欲しい。気はして欲しいけれど、私はきっと先生の期待通りの事も何も出来ないからただ誰かの後ろにいたい。
「ハイスペックってやつですね」
「……それを言うならあのタコの方じゃないか」
「殺せんせーは弱点多いですよ」
巨乳とか女子大生とか。
「その調子で弱点見つけて頑張ってもらいたい所だな」
「烏間先生は私達が殺せると思ってるんですか?」
「……それを全力でアシストするのが俺の仕事だ」
少し、煮え切らない答えだ。烏間先生はありきたりな「やれば出来る」という言葉を使わない。彼の人生なんてほんの少ししか知らないけれど、経験とそれに伴う実績を持ちえる人物なのは確かだ。その中で脱落していく人だって多くみただろう。
前に半日だけこのクラスの面倒を見た鷹岡明という防衛省の男性はそんな烏間先生に対抗心を持っていたという。鷹岡先生の教育方針を知らず、驚いた烏間先生の様子から色々と察する事が出来る。きっと同期の鷹岡明という人間は知っていても、独裁的な制裁を与える鷹岡明教官なんて知りもしなかったのだ。
「じゃあ好きなものとか、嫌いなものはありますか」
「……今日の君はよく喋るな」皮肉ではなく、本当に驚いたように先生は言う。
「………調子乗ってスミマセン」
「いや、悪い事じゃない」少し間を置いた。「だが好き嫌いか……。特にはないな」
たまにクラスでどこか行くときに烏間先生は食べ物を奢ったり(ちなみに年中金欠の殺せんせーも参加しようとするけれどいつも断られている)しているけれど、確かに、先生自身がコレを食べたいアレをしたい等と主張した事はなかった。そりゃ、大人だから遠慮しているのかもしれないけれど周りの殺せんせーとかビッチ先生が自由奔放だからこそ余計に目立つ。
「さんは何かあるのか?」
「え……うーん……」自分でしといてだけど、この質問は範囲が広すぎて何を答えたらいいか分からない優しくない質問だなと今気付いた。「と、と、豚トロが好きです。おいしい」
「豚トロ?」
烏間先生はポカンとした。美味しいって何だよ!そりゃ美味しいけどさ!と自身にツッコミを入れた瞬間に烏間先生は肩を震わせて静かに笑った。今は丁度赤信号になったばかりで、前を見なくても大丈夫だった。その様子に今度は私がポカンとした。笑うんだ、この人。
「っそうか、そうか……焼肉行ったら確かに頼むな」
「よ、よかった。先生も好きですか」何が良かったのかも分からない。
「そうだな。好んで食べているだろう」
いつかE組で焼肉もいいんじゃないかなとそんな話をしようとしたけれど、気がつけば私の家周辺についていたようで、見覚えのある道が見えた。「あ、そこ曲がったらうちなので、ここで大丈夫です」
「ここから30分歩く事はないよな」先生はよく覚えていたようだ。
「走ったら30秒です」
「分かった」
曲がり角に留めた。
肉の話をしたせいですっかり肉の口になってしまったが、きっと夕飯は魚だろう。昨日肉だったような気がする。それでももう夕飯時を過ぎているせいでしっかりとお腹はすいているし、何でも美味しく食べる事は出来るはずだ。
「烏間先生、ここまでスミマセン。ありがとうございました」
「今度から危ない事は絶対にしないように」
「……ハイ」
とは言え、少しは無理をしたい年頃だ。あと一年もない。私達が成果を出さなきゃ烏間先生、や、ビッチ先生がここまで来た意味がなくなってしまう。返事が遅い私を烏間先生はじっと見たので、私はもう一度「大丈夫です。ヤバそうな時は今度は先生に報告します」と返事した。
「事前にだからな」
「了解です」
車のドアを開けて外気に触れる。涼しくて、とても過ごしやすい気候だった。ちょっとばかし風が強くて髪がぐちゃぐちゃになるのだけはNGだったけれども。
「それじゃ、さん」烏間先生は窓ガラスを開けた。「おやすみ」
「え、あ、はい、おやすみなさい」
そして先生の車は元来た道を戻っていった。珍しい車とか、そういう訳じゃなかったけれど、先生を乗せたあの車がこの道を走っているというと、凄く違和感を覚えた。やはり、先生の車はどこか異世界を走っているのかもしれない。今日、私はそれにご一緒出来たことはきっと奇跡的に光栄な事ではあるけれど、ただ単に偶然な事でもあるからコレっきりではないはず。だからいつかまたこの体験をしてみたいな、とこの曇り空に少しだけ願った。