※現パロ
「好きです」
人生で一番、勇気を出して言った言葉だろう。たった4文字なのに、ここまで喉が空っぽになるとは思ってなかった。それでも、言ってしまったからにはもう取り消すことはできない。肩でなんとか呼吸を整えようとしても、心臓がうるさすぎて、その振動で揺れてるようだ。
逃げ出したい気持ちになりながらも、私は目線を逸らさずにいた。今、一瞬でも逃してしまったらそのまま溶けてしまう気がしたのだ。私が。しかし、いつもなら真っ直ぐ見返してくれるその人は、ばつが悪そうに視線をうろつかせる。
「――ごめんね」
人はたった4文字で、地獄に堕ちるのだ。
*
寝れば忘れると思っていたのに、そんなことは問屋がおろさない。2度寝をしようとまた眼を閉じてみるが、脳裏に浮かぶのは申し訳なさそうな杉元くんの顔だ。
ちらりとスマホを覗いてみるが新着メッセージはゼロ。杉元くんとはライン交換もしてないし、着信は来るわけないけれど、誰かにこの話を漏らしてたりしたら誂われたりするのかな、という被害妄想が止まらないので思わず電源を落とした。
不貞腐れても仕方ないと、顔を洗うために洗面台に立つ。鏡の前の私は、想像より元気そうな顔をしていた。そりゃあ、数時間でやつれるはずなんてない。だけど、不満げでムスッとした表情は私史上最高にブスだった。
しかし、しかしだ。考えてみよう。杉元くんは確かに優しい。だけど、私みたいなほぼ絡みナシの女のことを気にするのだろうか。そう思うと気分が晴れたし、理不尽にもちょっとイライラした。恋愛は人を凶悪化させるのだろう。
水道を締め顔を拭いていると、はたと思い出す。
「……やば、今日のシフト、かぶるじゃん」
大学も違う私と杉元くんの接点は、居酒屋のバイトということだけだ。入る時間帯はほぼ同じなのだが、杉元くんは週末、私は週初めにシフトを組んでいるため、週に一度しか顔を合わせない。そんな今日、土曜日だけ唯一、シフトが同じになる日だった。
告白という暴挙に出た昨日は出勤日ではなかったのだが、締め作業あとに飲み会があったので、そこだけ参加していたのだ。
言い訳にしかならないだろうが、普段会わない日に合う杉元くんはいつもと違って輝いているように見えた。
特別感があるというか、とにかくそのせいでいつも以上に酒を飲んでしまったし、挙げ句の結果だ。酒は飲んでも飲まれるな。遠い昔に聞いた常套句がこんなにも痛い。
*
仕事中なのにどうして私語をするのか。それは環境のせいである。厳しい――というと嫌な意味に聞こえそうだが――職場では、少し笑いあっただけでも怒られるものだ。しかし、ここの職場はそんなんじゃない。アットホームを売りにしているだけあって、客にもフレンドリーだし、常に和気あいあいとしている。
こんなバイト、すぐに辞めれば良かった。グラスを片付けながら、私は境遇を呪った。呪う原因は私自身が生み出したこととはいえ、恋愛は以下省略。
バックヤードに戻ると、冷やさなければいけない瓶ビールが冷蔵庫の前に放置されていたので慌てて取り込んだ。話してばかりいるんだから、こういったことに眼が届かなくなるんだぞ!と、先週同じようなミスをした私は思った。
「さん、その作業代わるよ。重いよね」
「え? ああ、もう少しで終わるからいいよ」
何気なく返してから、「そっか」と返す声が杉元くんと気付いて、5秒くらい固まり、遅れて動揺した私は手に持ったビール瓶同士をぶつけてしまった。ガランッと大きな音が響いた。
何普通に話しかけてきてるんだ! 仕事だからか! おお、そうだな!
「どうしたの?! 大丈夫?」
「う、うん、気にしないで。ちょっと置き方が悪かっただけ……」
一度は通り過ぎた杉元くんがまた顔を覗かせる。本当に優しいなこの人は、なんてまたアホみたいな思考回路になりそうだったので、そっと自分の頭を小突いた。早く眼を覚ますべきなのである。
この場からどう逃げようと思っていると、気だるげに店長が呼んでいたので、私は今までにない速度で彼の元へ翔けた。一目散であった。
「早ッ。急ぎの対応でもしてんの?」
「そういう訳じゃないですけど、早い方がいいじゃないですか!」
「ふーん。まあいいや。今日さ、ラストまで残れる? 家ってこの辺だっけ」
「えぇ……徒歩で帰ろうと思えば帰れますけど、人が足りないんですか?」
「マジで足りないんだよ。今日、俺と杉元しかいねえの」
キツ。即座に顔に出てしまったので笑われた。
もちろん店長は私と杉元くんのことを知らないだろうから、一気にテンションが下がった私の心境を『忙しいところに残りたくない』とでも思っているのだろう。「深夜の給与にもなるし、なんなら夕飯代もカンパしてやるからさ!」
*
さすがの土曜。飲み放題のグラスをなかなか返してくれないおじさん、朝まで居座ろうとする学生をなんとか追い出し、閉店時間を30分すぎてから、ようやく掃除をすることができた。
「うわっ、店長、何スマホ見てるんですか! 作業して下さいよ」
もともと残る予定のなかった私は強気に出た。うちは確かにルーズな職場であるが、さすがに営業時間中のスマホは当然NGだ。店長だから良いということにはならない。今は時間外にはなるが、スマホをいじっている1分も無駄にはしなくないのだ。
キッと睨むと、店長は苦笑を零した。
「いやあ、子供が熱出しててさ。嫁からのライン見てたんだよ」
「え! お子さんってまだ小さいですよね? 早く帰った方よくないですか?」
何してるんだこいつはという気持ちで言うと、店頭を掃除していた杉元くんも賛同する。「あとは俺たちでやっておくんで、顔見せてあげて下さいよ」
仕事に対して真面目、というより、家庭からやや逃げつつある店長を説得し、なんとか退勤させた。帰り際に宣言通りのカンパなのか、千円札を2枚握らされたのでホクホクとしたが、これは2人分だという。まあ千円でもありがたいけど、と、考えたところで、フと気づく。
「……さんと2人で締め作業って初めてじゃない?」
「っそーだね!でも私、締めはやったことないから教えてほしいな」
そうかここは地獄か。2人きりになりたいと願っていたのは昨日までの話しだ。
何も気にしてませんよ、という顔をしつつ、あまり媚びた言い方に聞こえてませんように、と祈った。なぜかといえば、突っ走った行動をしてしまったせいで、『教えてほしい』は相手を持ち上げるための恋愛テクのように思えてしまうからだ。
「作業としては大半がいつも通りに掃除だけど、鍵をかけたりすることがあるんだよね。それは俺がやっておくから大丈夫」
あれ? もしかして距離を置かれた?
「……次にまた締めやるかもしれないから、覚えたいなー……って」
勘違いしてほしくないのだが、これは決して杉元くんと一緒にいたいからの意ではない。昨日までの私なら40%、いや、70%くらいはそんな意味も含まれたかもしれないが、また今日のように突発的に残業イベントが起こるかもしれない。
締め作業を今日で完璧に覚えられないだろうが、バイトへの教育なんて、何か1つ2つ教えることが欠けるだろう。○○さんはこう言っていた!という言った・言わないを避けるために色んな意見を聞いておくことが大事だ。
「そう、だね……。じゃあとりあえずこっちの作業からしようか」
杉元くんは歯切れの悪い返事をした。
その態度に、私は怒りよりも焦りが生まれたが、説明は至極丁寧なものだった。時間が時間だからテキパキと説明はされたが、分かりやすかった。店をただ締めるだけの作業だと思っていたが、ところどころ明日朝イチから入る人のためにも行動していたので、また少しキュンとした。
「さんはさ、」
着替えが終わり、シャッターを下ろしていると杉元くんはポツリと言った。「これからはこの時間で上がるの? 前まで11時には上がってたよね」
「今日は人手がなかったから残っただけだよ。この時間だと電車もないし、困るしね」
「……どうやって帰るの?」
「歩こうかなって思ってたんだけど、もう疲れたし、朝までどこかの店で時間潰すよ」
幸いにも、近場で24時間やっている居酒屋やカラオケなど、行き場には困らないのはありがたい。「そういえば店長から千円もらってたんだった! これ杉元くんの分。渡すの遅くなってごめん」
「ん? なんで俺の分もあるの?」
「あ、そっか、杉元くんは元々このシフトだもんね。でも店長先帰っちゃったし、懺悔の気持ちもあるんじゃない?」
「はは、変なの。まあもらえるならもらうけどさ」
そうして受け取った杉元くんは少し考えるような素振りをする。
「折角だし、もしさんが始発まで残るなら俺もいようかな。この時間、何があるか分からないでしょ?」
「え」結構です、と言おうとして、口をつむぐ。さすがに失礼な返答だからだ。
ニコニコとはにかむ杉元くんを見、もしかしたら、と私は思った。
もしかしたら杉元くんは昨日のことを覚えていないのだろうか。それならば、ある意味いつも通りのこの微妙な距離も頷ける。私たちは一週間に一度しか会わない同僚なのである。
確かに昨日は誰も彼も、みんな浴びるように酒を飲んでいた。杉元くんは元来、酒も強くなかったと思うし、若干記憶が飛んでしまっているのかもしれない。
「よし! じゃあ店長からもらったお金でせんべろしよう!」
*
千円で酔うためには、つまみはお通しだけにしてあとは酒を頼めばいい。ちまちまと肴を食べながら、ごくごくと酒を行くのだ。しかし、仕事終わりで胃が空っぽのまま飲んでしまうとすぐに酔いが回るので注意すべし。
「さん、大丈夫……? 水もらったよ」
うん、注意が必要だったのだが、それはもう後の祭りだった。普通に丼を食べている杉元くんの前で、酒しか頼まなかった私は情けないことに、一杯さえ飲み切れずクラクラになり、机に突っ伏していた。そういえば昨日も飲み会だったわ。
「杉元くんありがとう……優しい……。ちょっとは落ち着いてきました……」
「何も食べずにお酒だけ入れるのは危険だってよく分かったよ」
「反面教師にしておいてね……」
そうして、杉元くんはフードメニューを追加した。「そばでも食べようよ。二人で半分こにしてさ」
「うわーありがたい~~。温かいのなら食べれそう」
「良かった。というか昨日も結構飲んでたのに、よく今日も飲むね」
「杉元くんと飲めるのが嬉しくて、思わず」
へへへ、と笑うと、杉元くんは照れくさそうにした。
「さんって酔うといつもこうなの?」
「こう?」
何か違いがあるのだろうか。自分ではとくに違いが分からず、首を傾げる。
「失礼な意味じゃないんだけど」と、前置きをして続けた。「素直、というか……いつもキリッとしてるイメージあるから驚いた」
「そんな固く見えてたの?!」
「自分一人で全部やっちゃうっていうか、もちろん聞くときは聞いてくれるけど、頼らないというか……」
「え? 大丈夫それ。悪口じゃない?」
「違う違う! 褒めてるつもり」
じっと見ていたら杉元くんがオーバーに慌てるので思わず笑ってしまった。こんなにじっくり話したことは初めてなのだ。私のイメージする杉元くんだって、実際の杉元くんと違うかもしれないんだから、逆も然りだろう。
「今みたいなのがさんの素なら良いなって思うよ」
先程頼んでいたそばが到着したので、小さめなお椀に半分をよそう。
「―――昨日、みたいなのも」
そばをテーブルに落としかけた。
古い機械のようにギギギと、ゆっくり顔を上げると、杉元くんは真っ直ぐに私を見ていた。その目線に、まるで首を締められたかのように呼吸が止まった。久方ぶりにバクバクなる心臓を抑えながらも、ひとまず、そばを全て分け、杉元くんの元にお椀を置いた。
「えぇ、昨日?」
『アレ』のことはともかく、その前に飲み会もしていたのでもしかしたらそちらで何かをやらかしている可能性もあるのだ。下手な三文芝居だったとは思うが、杉元くんは呆れもせず、優しい眼をしていた。
「昨日、帰ってたときのこと覚えてる?」
「……えっ」
「………えっ!? 本当に覚えてないの!?」
嘘、と杉元くんは顔を青くした。心配させているのは忍びないので、覚えていると言いたいところだったが、思い当たる節がないために、私も私で困惑した。
帰ってたとき、……一緒に帰った? 私と杉元くんで一緒に帰っていたのだろうか? もしかして、家が同じ方向だったのか? 何一つ思い出せず、乾いた笑いを出すしかなかった。
「ええっと、さんの家、ちょっと遠いから送ったんだけど」
「………あー………うーん?」
少し記憶が蘇った気がして、私は口元に手を置いた。
そういえば私は告白をどこでしたんだろう。杉元くんの言うことが正しいなら、送ってもらう前? いや、でもそんなタイミングで告白してたら他の人に私を預けるだろう。参加メンバーはそれなりにいたし、最後の最後まで残っていた人たちもそこそこいたはず。
ならば、送ってもらった、後? どこで?
なんだかとても嫌な予感がしてきたので、先程の杉元くんの質問を思い返し、思考を反らした。
「私、帰り道で失礼なことでもした……?」
「失礼なことではないと思うけど……」
杉元くんが、テーブルに置いている私の手をちらりと見た。そして、にゅっと伸びてきた彼の手が私の手を、指を絡めた。指の股が、知らない温度に触れて熱くなる。羞恥から声を上げそうになりながらも自制していると、留めの一撃が入った。
「こう、手を繋ぎたがってたよ」
「っ私を止めてよ!」
「何度か離してみたんだけど」
殴り倒してもいいから止めて欲しかった。再現のために絡めていた杉元くんの指が離れると、どこか一気に冷えた気がした。いや、これは悪寒か?
「杉元くんの目の前でお酒飲むの控える……」
頼むからここで解散ということにならないだろうか。天に願いたかったが、終電はもちろんないし、始発まであと2時間以上ある。
「そういうことじゃなくて」
先程までニコニコしていた杉元くんの目の色が、少し変わった気がした。「他の人にもああいうことするの?」
「し、しないでしょ! だって……」
さすがにそこまでの恥知らずじゃないはずだと声をあげるが、現にこうして記憶を飛ばしている以上、自分に信頼を置けない。しかし、相手が杉元くんだからこそやらかしてしまったという説は多いにある。
「だって?」
悪魔のような顔だ。否、いつもの杉元くんのはずだけれど、この辺りは察してフェードアウトしてほしいのに。
どうにか誤魔化す方法を考えたが、得策は皆無だったため、「昨日に引き続き、2夜連続で振られたくないんだけど……」と、弱々しく返した。
「あー……振ってはないよ」
「えっ!? あっそっか私の勘違いで――」
好きとかそういう話はなかったんだね!と続けようとしたが、「告白はされたけど」と一刀両断。
「『ごめんね』って言ったじゃん!」
「だって、さん、そのまま部屋に入れようとするんだよ?」
「う、うそ」
「そこで入っちゃったら大変でしょ……。『酔ってるのかな』って思って遠慮したよ」
「…………うわあ……」
確かに告白した場所は家の前だったかもしれない。モヤがかかっていたような記憶が晴れた気がした。晴れない方が良かった。
「ごめんね、本当に……連れ込もうとしたのは、ただ一緒にいたいとか思ってたんじゃないのかな……。うち来てもとくにすることないけどさ……」
「えっ」
今度は杉元くんが声を上げた。先程までは余裕そうな表情だったけれど、今は少し落ち着きが無さそうな顔。
「良かった。入ってたら俺、取り返しのつかないことしてたかも」
どういう意味なのか、言葉をうまく飲み込めずにいると、「そういう事じゃなかったんだね」と、恥ずかしそうに言った。
そして誤魔化すかのように、先ほど置いたそばをすすり始めた。
「そういう事じゃないよ……!」
テーブルに突っ伏すのは本日2度目である。
「好きです」
人生で一番、勇気を出して言った言葉だろう。たった4文字なのに、ここまで喉が空っぽになるとは思ってなかった。それでも、言ってしまったからにはもう取り消すことはできない。肩でなんとか呼吸を整えようとしても、心臓がうるさすぎて、その振動で揺れてるようだ。
逃げ出したい気持ちになりながらも、私は目線を逸らさずにいた。今、一瞬でも逃してしまったらそのまま溶けてしまう気がしたのだ。私が。しかし、いつもなら真っ直ぐ見返してくれるその人は、ばつが悪そうに視線をうろつかせる。
「――ごめんね」
人はたった4文字で、地獄に堕ちるのだ。
寝れば忘れると思っていたのに、そんなことは問屋がおろさない。2度寝をしようとまた眼を閉じてみるが、脳裏に浮かぶのは申し訳なさそうな杉元くんの顔だ。
ちらりとスマホを覗いてみるが新着メッセージはゼロ。杉元くんとはライン交換もしてないし、着信は来るわけないけれど、誰かにこの話を漏らしてたりしたら誂われたりするのかな、という被害妄想が止まらないので思わず電源を落とした。
不貞腐れても仕方ないと、顔を洗うために洗面台に立つ。鏡の前の私は、想像より元気そうな顔をしていた。そりゃあ、数時間でやつれるはずなんてない。だけど、不満げでムスッとした表情は私史上最高にブスだった。
しかし、しかしだ。考えてみよう。杉元くんは確かに優しい。だけど、私みたいなほぼ絡みナシの女のことを気にするのだろうか。そう思うと気分が晴れたし、理不尽にもちょっとイライラした。恋愛は人を凶悪化させるのだろう。
水道を締め顔を拭いていると、はたと思い出す。
「……やば、今日のシフト、かぶるじゃん」
大学も違う私と杉元くんの接点は、居酒屋のバイトということだけだ。入る時間帯はほぼ同じなのだが、杉元くんは週末、私は週初めにシフトを組んでいるため、週に一度しか顔を合わせない。そんな今日、土曜日だけ唯一、シフトが同じになる日だった。
告白という暴挙に出た昨日は出勤日ではなかったのだが、締め作業あとに飲み会があったので、そこだけ参加していたのだ。
言い訳にしかならないだろうが、普段会わない日に合う杉元くんはいつもと違って輝いているように見えた。
特別感があるというか、とにかくそのせいでいつも以上に酒を飲んでしまったし、挙げ句の結果だ。酒は飲んでも飲まれるな。遠い昔に聞いた常套句がこんなにも痛い。
仕事中なのにどうして私語をするのか。それは環境のせいである。厳しい――というと嫌な意味に聞こえそうだが――職場では、少し笑いあっただけでも怒られるものだ。しかし、ここの職場はそんなんじゃない。アットホームを売りにしているだけあって、客にもフレンドリーだし、常に和気あいあいとしている。
こんなバイト、すぐに辞めれば良かった。グラスを片付けながら、私は境遇を呪った。呪う原因は私自身が生み出したこととはいえ、恋愛は以下省略。
バックヤードに戻ると、冷やさなければいけない瓶ビールが冷蔵庫の前に放置されていたので慌てて取り込んだ。話してばかりいるんだから、こういったことに眼が届かなくなるんだぞ!と、先週同じようなミスをした私は思った。
「さん、その作業代わるよ。重いよね」
「え? ああ、もう少しで終わるからいいよ」
何気なく返してから、「そっか」と返す声が杉元くんと気付いて、5秒くらい固まり、遅れて動揺した私は手に持ったビール瓶同士をぶつけてしまった。ガランッと大きな音が響いた。
何普通に話しかけてきてるんだ! 仕事だからか! おお、そうだな!
「どうしたの?! 大丈夫?」
「う、うん、気にしないで。ちょっと置き方が悪かっただけ……」
一度は通り過ぎた杉元くんがまた顔を覗かせる。本当に優しいなこの人は、なんてまたアホみたいな思考回路になりそうだったので、そっと自分の頭を小突いた。早く眼を覚ますべきなのである。
この場からどう逃げようと思っていると、気だるげに店長が呼んでいたので、私は今までにない速度で彼の元へ翔けた。一目散であった。
「早ッ。急ぎの対応でもしてんの?」
「そういう訳じゃないですけど、早い方がいいじゃないですか!」
「ふーん。まあいいや。今日さ、ラストまで残れる? 家ってこの辺だっけ」
「えぇ……徒歩で帰ろうと思えば帰れますけど、人が足りないんですか?」
「マジで足りないんだよ。今日、俺と杉元しかいねえの」
キツ。即座に顔に出てしまったので笑われた。
もちろん店長は私と杉元くんのことを知らないだろうから、一気にテンションが下がった私の心境を『忙しいところに残りたくない』とでも思っているのだろう。「深夜の給与にもなるし、なんなら夕飯代もカンパしてやるからさ!」
さすがの土曜。飲み放題のグラスをなかなか返してくれないおじさん、朝まで居座ろうとする学生をなんとか追い出し、閉店時間を30分すぎてから、ようやく掃除をすることができた。
「うわっ、店長、何スマホ見てるんですか! 作業して下さいよ」
もともと残る予定のなかった私は強気に出た。うちは確かにルーズな職場であるが、さすがに営業時間中のスマホは当然NGだ。店長だから良いということにはならない。今は時間外にはなるが、スマホをいじっている1分も無駄にはしなくないのだ。
キッと睨むと、店長は苦笑を零した。
「いやあ、子供が熱出しててさ。嫁からのライン見てたんだよ」
「え! お子さんってまだ小さいですよね? 早く帰った方よくないですか?」
何してるんだこいつはという気持ちで言うと、店頭を掃除していた杉元くんも賛同する。「あとは俺たちでやっておくんで、顔見せてあげて下さいよ」
仕事に対して真面目、というより、家庭からやや逃げつつある店長を説得し、なんとか退勤させた。帰り際に宣言通りのカンパなのか、千円札を2枚握らされたのでホクホクとしたが、これは2人分だという。まあ千円でもありがたいけど、と、考えたところで、フと気づく。
「……さんと2人で締め作業って初めてじゃない?」
「っそーだね!でも私、締めはやったことないから教えてほしいな」
そうかここは地獄か。2人きりになりたいと願っていたのは昨日までの話しだ。
何も気にしてませんよ、という顔をしつつ、あまり媚びた言い方に聞こえてませんように、と祈った。なぜかといえば、突っ走った行動をしてしまったせいで、『教えてほしい』は相手を持ち上げるための恋愛テクのように思えてしまうからだ。
「作業としては大半がいつも通りに掃除だけど、鍵をかけたりすることがあるんだよね。それは俺がやっておくから大丈夫」
あれ? もしかして距離を置かれた?
「……次にまた締めやるかもしれないから、覚えたいなー……って」
勘違いしてほしくないのだが、これは決して杉元くんと一緒にいたいからの意ではない。昨日までの私なら40%、いや、70%くらいはそんな意味も含まれたかもしれないが、また今日のように突発的に残業イベントが起こるかもしれない。
締め作業を今日で完璧に覚えられないだろうが、バイトへの教育なんて、何か1つ2つ教えることが欠けるだろう。○○さんはこう言っていた!という言った・言わないを避けるために色んな意見を聞いておくことが大事だ。
「そう、だね……。じゃあとりあえずこっちの作業からしようか」
杉元くんは歯切れの悪い返事をした。
その態度に、私は怒りよりも焦りが生まれたが、説明は至極丁寧なものだった。時間が時間だからテキパキと説明はされたが、分かりやすかった。店をただ締めるだけの作業だと思っていたが、ところどころ明日朝イチから入る人のためにも行動していたので、また少しキュンとした。
「さんはさ、」
着替えが終わり、シャッターを下ろしていると杉元くんはポツリと言った。「これからはこの時間で上がるの? 前まで11時には上がってたよね」
「今日は人手がなかったから残っただけだよ。この時間だと電車もないし、困るしね」
「……どうやって帰るの?」
「歩こうかなって思ってたんだけど、もう疲れたし、朝までどこかの店で時間潰すよ」
幸いにも、近場で24時間やっている居酒屋やカラオケなど、行き場には困らないのはありがたい。「そういえば店長から千円もらってたんだった! これ杉元くんの分。渡すの遅くなってごめん」
「ん? なんで俺の分もあるの?」
「あ、そっか、杉元くんは元々このシフトだもんね。でも店長先帰っちゃったし、懺悔の気持ちもあるんじゃない?」
「はは、変なの。まあもらえるならもらうけどさ」
そうして受け取った杉元くんは少し考えるような素振りをする。
「折角だし、もしさんが始発まで残るなら俺もいようかな。この時間、何があるか分からないでしょ?」
「え」結構です、と言おうとして、口をつむぐ。さすがに失礼な返答だからだ。
ニコニコとはにかむ杉元くんを見、もしかしたら、と私は思った。
もしかしたら杉元くんは昨日のことを覚えていないのだろうか。それならば、ある意味いつも通りのこの微妙な距離も頷ける。私たちは一週間に一度しか会わない同僚なのである。
確かに昨日は誰も彼も、みんな浴びるように酒を飲んでいた。杉元くんは元来、酒も強くなかったと思うし、若干記憶が飛んでしまっているのかもしれない。
「よし! じゃあ店長からもらったお金でせんべろしよう!」
千円で酔うためには、つまみはお通しだけにしてあとは酒を頼めばいい。ちまちまと肴を食べながら、ごくごくと酒を行くのだ。しかし、仕事終わりで胃が空っぽのまま飲んでしまうとすぐに酔いが回るので注意すべし。
「さん、大丈夫……? 水もらったよ」
うん、注意が必要だったのだが、それはもう後の祭りだった。普通に丼を食べている杉元くんの前で、酒しか頼まなかった私は情けないことに、一杯さえ飲み切れずクラクラになり、机に突っ伏していた。そういえば昨日も飲み会だったわ。
「杉元くんありがとう……優しい……。ちょっとは落ち着いてきました……」
「何も食べずにお酒だけ入れるのは危険だってよく分かったよ」
「反面教師にしておいてね……」
そうして、杉元くんはフードメニューを追加した。「そばでも食べようよ。二人で半分こにしてさ」
「うわーありがたい~~。温かいのなら食べれそう」
「良かった。というか昨日も結構飲んでたのに、よく今日も飲むね」
「杉元くんと飲めるのが嬉しくて、思わず」
へへへ、と笑うと、杉元くんは照れくさそうにした。
「さんって酔うといつもこうなの?」
「こう?」
何か違いがあるのだろうか。自分ではとくに違いが分からず、首を傾げる。
「失礼な意味じゃないんだけど」と、前置きをして続けた。「素直、というか……いつもキリッとしてるイメージあるから驚いた」
「そんな固く見えてたの?!」
「自分一人で全部やっちゃうっていうか、もちろん聞くときは聞いてくれるけど、頼らないというか……」
「え? 大丈夫それ。悪口じゃない?」
「違う違う! 褒めてるつもり」
じっと見ていたら杉元くんがオーバーに慌てるので思わず笑ってしまった。こんなにじっくり話したことは初めてなのだ。私のイメージする杉元くんだって、実際の杉元くんと違うかもしれないんだから、逆も然りだろう。
「今みたいなのがさんの素なら良いなって思うよ」
先程頼んでいたそばが到着したので、小さめなお椀に半分をよそう。
「―――昨日、みたいなのも」
そばをテーブルに落としかけた。
古い機械のようにギギギと、ゆっくり顔を上げると、杉元くんは真っ直ぐに私を見ていた。その目線に、まるで首を締められたかのように呼吸が止まった。久方ぶりにバクバクなる心臓を抑えながらも、ひとまず、そばを全て分け、杉元くんの元にお椀を置いた。
「えぇ、昨日?」
『アレ』のことはともかく、その前に飲み会もしていたのでもしかしたらそちらで何かをやらかしている可能性もあるのだ。下手な三文芝居だったとは思うが、杉元くんは呆れもせず、優しい眼をしていた。
「昨日、帰ってたときのこと覚えてる?」
「……えっ」
「………えっ!? 本当に覚えてないの!?」
嘘、と杉元くんは顔を青くした。心配させているのは忍びないので、覚えていると言いたいところだったが、思い当たる節がないために、私も私で困惑した。
帰ってたとき、……一緒に帰った? 私と杉元くんで一緒に帰っていたのだろうか? もしかして、家が同じ方向だったのか? 何一つ思い出せず、乾いた笑いを出すしかなかった。
「ええっと、さんの家、ちょっと遠いから送ったんだけど」
「………あー………うーん?」
少し記憶が蘇った気がして、私は口元に手を置いた。
そういえば私は告白をどこでしたんだろう。杉元くんの言うことが正しいなら、送ってもらう前? いや、でもそんなタイミングで告白してたら他の人に私を預けるだろう。参加メンバーはそれなりにいたし、最後の最後まで残っていた人たちもそこそこいたはず。
ならば、送ってもらった、後? どこで?
なんだかとても嫌な予感がしてきたので、先程の杉元くんの質問を思い返し、思考を反らした。
「私、帰り道で失礼なことでもした……?」
「失礼なことではないと思うけど……」
杉元くんが、テーブルに置いている私の手をちらりと見た。そして、にゅっと伸びてきた彼の手が私の手を、指を絡めた。指の股が、知らない温度に触れて熱くなる。羞恥から声を上げそうになりながらも自制していると、留めの一撃が入った。
「こう、手を繋ぎたがってたよ」
「っ私を止めてよ!」
「何度か離してみたんだけど」
殴り倒してもいいから止めて欲しかった。再現のために絡めていた杉元くんの指が離れると、どこか一気に冷えた気がした。いや、これは悪寒か?
「杉元くんの目の前でお酒飲むの控える……」
頼むからここで解散ということにならないだろうか。天に願いたかったが、終電はもちろんないし、始発まであと2時間以上ある。
「そういうことじゃなくて」
先程までニコニコしていた杉元くんの目の色が、少し変わった気がした。「他の人にもああいうことするの?」
「し、しないでしょ! だって……」
さすがにそこまでの恥知らずじゃないはずだと声をあげるが、現にこうして記憶を飛ばしている以上、自分に信頼を置けない。しかし、相手が杉元くんだからこそやらかしてしまったという説は多いにある。
「だって?」
悪魔のような顔だ。否、いつもの杉元くんのはずだけれど、この辺りは察してフェードアウトしてほしいのに。
どうにか誤魔化す方法を考えたが、得策は皆無だったため、「昨日に引き続き、2夜連続で振られたくないんだけど……」と、弱々しく返した。
「あー……振ってはないよ」
「えっ!? あっそっか私の勘違いで――」
好きとかそういう話はなかったんだね!と続けようとしたが、「告白はされたけど」と一刀両断。
「『ごめんね』って言ったじゃん!」
「だって、さん、そのまま部屋に入れようとするんだよ?」
「う、うそ」
「そこで入っちゃったら大変でしょ……。『酔ってるのかな』って思って遠慮したよ」
「…………うわあ……」
確かに告白した場所は家の前だったかもしれない。モヤがかかっていたような記憶が晴れた気がした。晴れない方が良かった。
「ごめんね、本当に……連れ込もうとしたのは、ただ一緒にいたいとか思ってたんじゃないのかな……。うち来てもとくにすることないけどさ……」
「えっ」
今度は杉元くんが声を上げた。先程までは余裕そうな表情だったけれど、今は少し落ち着きが無さそうな顔。
「良かった。入ってたら俺、取り返しのつかないことしてたかも」
どういう意味なのか、言葉をうまく飲み込めずにいると、「そういう事じゃなかったんだね」と、恥ずかしそうに言った。
そして誤魔化すかのように、先ほど置いたそばをすすり始めた。
「そういう事じゃないよ……!」
テーブルに突っ伏すのは本日2度目である。