私は朝日をずっと待っている。


「ああ、、丁度いい」

 きっともう誰も来ないだろう。そう思って練習室にいたのだが、そこにやってきた高遠さんが私を呼んだ。きっとこうやって呼ぶ時はいつだって同じ用事。それ以外、彼は私に用なんてないだろう。「読み合わせ、付き合ってくれ」

「はい、……『そこの方、東とはどちらか教えて下さらないかしら?』」
「………」

 想像通り、台本の読み合わせだった。しかし、高遠さんもそう言っていたはずだろうに、私のセリフから続くことはなかった。黙ったままの彼を見、間違っているのかと考えたけれど、彼の相手役であるヒロインのセリフの一番最初はこうである。ムキになるつもりはないが、少々焦りが生まれた。

「すみません、このシーンではなかったですか?」
「いや、違う。……悪い、俺もそのまま続ければよかったんだが、正直に言うと、が台本も無しにソラで言えたことにびっくりしたんだ」
「ああ……高遠さん、達の、今度の公演、練習を結構聞いていることが多かったので」
「そうだとしてもお前にだって今の公演があるだろう。……その貪欲さ、見習うべきだな」

 高遠さんは短くため息をついた。
 彼の言うとおり、私はこの劇とは無関係だ。今やっている公演では珍しく主演を得た私だったが、高遠さんはその次の公演の主演。私の公演が終わったら、かわりばんこというように、高遠さんの公演が始まる。

 貪欲、という言葉は一般的に褒め言葉では無いのだが、高遠さんとしては最上級の褒め言葉だろう。このGOD座で一番の高遠さんにそう評価されて嬉しくない訳がないので、思わず口先が上がりそうだった。

「自分の公演もそろそろ千秋楽だというのに、凄いな、は」
「……こういう時、本番以外は他の事を考えていると上手くいくんです、私は」
「なるほど。そういう切り替え方もあるんだな」

 随分適当な理由だと思った。高遠さんは頭が良いけれど、言ってしまえば単純で、素直で、人の言葉は全てストレートに受け止める。こんな口からでまかせ、覚えて欲しくないのだけれど、本当のことを言いたくはないのでこのままでいるしかない。あなたが出てるから、あなたのヒロインのセリフだから、なんて口が裂けても言えるはずないだろう。

 高遠さんは一応私に予備の台本を渡そうとしていたようで、私はそれを受け取る。

「大学の時から、お前の記憶力は見張るものがあった」

 ああ、そういえば、私はもう6年も彼を追っているのかと、思い出した。

「最近だと特にだ。演技の幅、更に広がったんじゃないのか?」
「神木坂さんが何考えているか分からないですけど、性格があまりに違う役ばかりですから」
「………俺は自分の演技を制限されてる気分だ」

 今度は長い溜息を吐いた。GOD座の主宰である神木坂レニはどうにも高遠さんの王子様を気に入っているらしく、私はここ最近ずっと王子役以外での高遠さんを見たことがなかった。とはいえ、彼の性格としては、王子という柄ではない。それでも演技のスイッチが入ると途端に王子様になれるのだから才能か。もちろん元々、GOD座の雰囲気としては、絢爛豪華な装飾の舞台をメインとしたものが常であるから、ここに入ってしまった以上は大抵そういった舞台に似合う身分の役になってしまう。が、高遠さんのイメージダウンをさせない為か、悪役だったり、ちょっと抜けているキャラを与えることはない。
 私はというと、素の私が何か分からないくらい、突拍子もない役から、生真面目が服着てるみたいな役まで、空いた隙間に入れられるかの如く、色んな役が周ってくる。

「ああ、でも今回は平民の役じゃないですか」
「それでも最終的に姫と結婚して王様になるだろ」
「……まあ、主演である以上は良い身分になって終わらないと夢ないですしね」
「………そういうものなのか」

 そろそろ、読み合わせを再開しよう、と、私が高遠さんに向き合うと、まだ何か言いたげな顔をしていたので彼の目をじっと見た。すると、素では滅多に笑わない高遠さんが少し微笑んだ。

「お前は色んな劇を経て、ずっと上手くなっているな」

 演技に本気だからこそ、高遠さんの本気の一言。嬉しくないはずがないのに、私はスッと、冷める体温を感じた。


 初めて高遠丞を見たのは、私が高校生の時だった。たまたま、近くの大学でオープンキャンパスをやっていたので、偶然、友達と行く気になり、何となく、やっていた演劇サークルの練習風景に目が奪われた。そこの演劇サークルは、これからもこれで食べていくという人が多く在籍している強豪で、素人目に見ても、遊びではないのが分かった。

 今まで劇というのは学校行事でしか見たことなかったけれど、その瞬間から、ここのサークルに絶対入りたいという気持ちが高まった。血がいきいきと巡っているよう。私はここできっと呼吸を始めたんだ。
 完全に順番が逆だろうが、そこからその大学に何学科があるのか調べたのはまだ記憶に残っている。

 入ってみると、高遠さんは一学年上の先輩で、もっと上の人だと思っていたので驚いた反面、まだ彼が卒業するのは先なのだと思うと、未だ何も彼のことを知らないのに嬉しく思ったものだ。きっとこんな事、誰に言うつもりはないけれど、それから6年間、ずっと彼を見ていた。

 だが、それも過去の話。彼のことは全て、過去になった。

 高遠丞がGOD座からいなくなって、随分経った。それから演技以外何もする気が起きなくなってしまって、一層つまらない人間になっていくのが自分でも分かった。いや、そもそも、つまらない人間だったのだろうか。自問自答してみるが、答えなんて見つからない。個人的思春期の絶頂に、高遠丞に出会ってしまったのだから、彼を知らなかった頃にはもう戻れない。どうやって生きていたのかを忘れてしまったのだ。高遠さんがいない世界でどうやって呼吸して、暇な時何を考えていたかなんて。

 こう言ってしまうと、私がまるで高遠さんの彼女になりたかったとか、奥さんになりたいだとか、そんな夢を描いている女のようだが、きっと、たぶん、そうじゃないと思う。私にとって高遠さんは神様であり、つまりは神様と結婚なんて出来ないんだから、そんな夢なんて見ないでしょう。私は夢見る女よりも更に痛い女なのだ。

 恋人になりたい訳じゃない。そんな欲張りや無謀を願っている訳じゃない。ただただ、私は光を見たいだけだというのに。

「……さん!」

 久しぶりに散歩をしていると、少し前に聞いたことがあるような声が聞こえた。その音を探さねばと、首を動かしていると、予想外の人物がそこにはいた。

「月、岡さん……?」
「あ、覚えててくれてたんだね、良かった」
「……良かったって、紬さんから話しかけたんじゃないスか」

 彼の姿をまさかこの天鵞絨町で姿を見るとは思っていなかったので、私は失礼ながらも怪訝そうな表情をしてしまった。

 彼、月岡紬さんとは高遠さんと同様に、大学の演劇サークルで一緒だった先輩だ。大学卒業後、もう演劇とは無縁の場所にいると思っていたので、一瞬私は過去の夢でも見ているかと錯覚した。彼とは3年ぶりくらいに再開したけれど、周りまで和らいでしまいそうな優しい雰囲気は健在のよう。

 彼の横にいるちょっと柄の悪そうな学生は気になるが、月岡さんはチラシ配りをしていた。とはいえそれももう終わりそうで、手に握っているのはあと数枚。

「万里くん、彼女は大学の後輩で……」
です」
「あーそんな畏まんなくてもいーよ」

 なんで私が敬語を使って、彼がタメ口なんだろうという疑問は大人として大切にしまっておこう。大切な先輩の前なのだ。邪念は切り捨てて、月岡さんへ向き直す。

「月岡さんも劇団入っていたんですね、また演技が見たいと思っていたので嬉しいです」
「……もしかして、知らなかった?俺、MANKAIカンパニーに入ったんだ」
「――ああ、最近凄く有名ですよね。主宰の前では禁句ですけどうちでも結構……あ、私、」GOD座に入っていたことは彼には言っていなかった、と、顔を上げた。
「知ってるよ、丞にも話は聞いていたしね」
「もしかしてこの子、GOD座?」

 バンリ君が嫌そうな顔をする。確かにGOD座は演劇関係者からは評判良くないことは分かってはいたが、あからさま過ぎだ。いや、それよりももっと気になることを月岡さんは、今?

「……高遠さん、と、連絡取ってるんですか?」
「ここからだったか……」

 月岡さんは苦笑を零した。そもそも、私が記憶しているのは、二人の道は分かつ、みたいな感じで、高遠さんに月岡さんの話を出すのはNGといえる程、冷え切った関係だったと思っていた。ずっと一緒に演劇やったけれど、記憶の中の高遠さんは、劇から逃げた人とはもう話したくない、とか言っていた。とはいえ、それももう昔話ということなのだろうか。曖昧な言葉を零したまま、説明もない月岡さんになんと聞こうかと考えていると、バンリ君が口を開く。

「アンタ、演劇興味あんの?」
「…………どういう意味ですか?」
「同じ町で演劇やってる俺達に興味持ってくれてもいいんじゃねーの?しかも昔なじみだろ」

 確かに耳に痛い話ではある。最近、オフだとしても頻繁に出かけていた足も遠のいて、家で一人でいることが増えていた。月岡さんが今所属しているMANKAIカンパニーとやらも、休憩中にメンバーが話している話題で聞いていた程度だし、最近ストリートACTにも参加をしていない。ただ家と劇団を往復するだけのロボットに近いだろう。

 目標がなくなってしまう虚無感は凄まじいもので、それが人間的魅力も落ちていることを自分でもよく分かる。最近もらえる役も端役になってきているし、私はそろそろ潮時なのかもしれない。
 だけど、私がこうやって縋っている理由としては、また太陽が登るのを待っているからだ。きっとまたどこかで会える。100%の演技が出来てなくてボロボロだけれど、それまでは、同じ舞台に立てるようになりたいと。

「丞さんだってウチにいるのにさ」

 バンリ君の一言に、私は頭が真っ白になるようだった。

「え?」
「はあ……アンタマジでGOD座なの?」
「万里君!ちょっと……」
「えっと、あ……」

 何もなくなったのだから早く足して、詰め込まなきゃいけない。だけど、どれも掬った水のようにダラダラと指の間からおちていく。どうか誰か拾ってよ。そんな他人任せのことが浮かんだ。ああ、ここの場にいるのが私じゃなきゃいいのに。私じゃなきゃ?

「―――へえ!すみません、情報が遅れてるみたいで。高遠さんと月岡さん、同じ劇団だったんですね。またお二人の劇が見れるなんて、楽しみです」

 ああ、そういえば私って6年間、演劇やってたんだなって思えた。スラスラと素の自分では決して言えない言葉が出てきた。表情だって作ってみせた。けど、自信があったのに、月岡さんを見てみると、あんまり顔色は良くない。相変わらずこの人は人の感情に敏感なのだ。ああ、私ってばもしかして向いてなかったのだろうか。いや、そんなこと、今知っても、もう、どうでもいいんだけど。さ。

「MANKAIカンパニーはどんな公演をやるんですか?」
「……次はミステリーなんだ。丞も俺も出るよ」
「そうなんですね、どちらが主演を?」
「………どっちでもないよ」

 私がまた、え、という顔をすると、視界の隅でバンリ君が舌打ちをした。そんなことで怒ったりはしないけれど、全く、今の私の気持ちの何%が君に分かるというのだろう。

 頬に当たる風が冷たいだなんて、今ようやく気づいた。身体を冷やす前に、早く帰らなきゃなと思った。そんな関係ないことは頭いっぱいに広がった。きっとこれは現実逃避。目の前のことを考えたくなくて、逃げているだけだ。だけどそれが何が悪いんだ。今だって、目標を無くしたなんて大それた理由つけて、ただ怠惰なだけ。私は生きる理由を勝手に高遠さんに押し付けていきたくはないのに。


 これまた別に誰かに説明したい訳ではないが、高遠丞は私の人生だと思っていた。彼が右向くなら、右に向いてみたくなるし、逆もそう。私の神様は、頭のてっぺんからつま先まで、高遠丞という形をしているだけだ。理想を透かせて彼を見ているのかもしれないが、彼に幻滅したことがない為に、その行為の何が悪いかなんて分からない。

のこれからの進路はどうするんだ」

 大学3年生の時、フと高遠さんが私に聞いたことを思い出した。

「就活の話ですか……そろそろなので辛いですね……」
「……一般企業にするのか?」

 高遠さんは1学年上なのだから、そろそろ私の就職がスタート、の前に、既に就職先はGOD座で決定していた。その頃にはもう、高遠さんと同じようにGOD座に受けに行った月岡さんと話すことはなく、風の噂で落ちた月岡さんは主宰の人にひどいことを言われたという話を聞いた。
 どこか残念そうに聞く彼の顔を見ていると不思議な気持ちになった。

「高遠さんは、どうだと思ったんですか?」
「それは勿論――」

 だって、私は憧れだけでここに入り、それだけのつもりで、確かに演技をするのは楽しかったけれど、それはある意味今だけしか出来ないと思っていたから全力でやれていた。こういうのはきっと、高校野球が面白いと思うのと同じ理由だろう。お金とか、名声とか、そういうの全く関係ない、青春っていう眩しいショーケースに入ってるからキラキラで美しい。

 高遠さんはまっすぐに私を見る。

「お前も演劇の道に行くのかと思っていた」

 ああ、あなたが道を示したのにね。


 月岡さんからもらったチケットで、私は冬組公演を観に行った。主演の人も、準主演も無名だった。でも、準主演の人の方の演技はこれまでどこにも名前出てなかったと思えないくらい上手い人だった。主演の人はまだまだだろうけれど、個性ある見た目をしているので、ファンが付けば強いだろう。それは決して演技自体の評価じゃなくても、キャラクターで売れることはビジネスとしては有りだ。衣装も遠くからだったけれど精巧さが伝わって、一体どんなプロが作っているのだろうか。

 見ていれば見ているほど、応援したくなる劇団で、チープな言葉だけれど「これからが更に楽しみ」と呼べるのが、正直とてもつらかった。もっともっと、幻滅するものを見せてくれれば良かったのに。あの人はまたこんな素晴らしい舞台を見せてくれるんだ。嫌いにならせてくれない。

 私なんてどうせ、仮初の夢を抱いているだけだというのに、それを本物の暖かさにしてくれてる。それがどうにも私にとってはしがらみで、支えで、根っこで、それでこうやって生きているんだと今ようやく呼吸が出来た。



 街灯が照らす街角で、聞き慣れた声がした。そんな訳ないのに、きっと、夢で何度も聞いたんだろう。

「……高遠さん、お久しぶりです」
「ああ、……顔色が悪いな、最近疲れているんじゃないのか」

 1年前に見た高遠さんがそこにはいた。何も変わらない。また少し、筋肉つけたかもしれないというその程度の違い。「また連続で舞台に出て……その気持ちも分かるが、お前は体力がないんだからもうちょっと自分の体を大事にしろよ」

「はい……」
「まあ、こんな事俺が言うこともないか……。――悪かった」
「…………え?」
「俺がGOD座を抜ける時、挨拶しなかっただろ。あの時はもう全て捨てるつもりだったけれど、せめてお前に一言言いたかった、……というのは今冷静になれてようやく思える」
「……いえ、元気そうで良かったです」

 私が僅かに微笑むと、高遠さんは安心したような顔をした。ああ、彼ってばこういう人。

「舞台、良かったです。MANKAIカンパニーは初めてみたんですけど、舞台美術も、衣装も、こんなに良いんですね」
「ああ。……向こうに比べれば金が無い劇団だがな。衣装なんて中学生の作品だ」
「中学生……!?……ボランティアなんですか?」
「いや、ちゃんと劇団員だ。ここは自分で出来ることは自分でっていうスタンスでやってるんだろうな」

 私が高遠さんに幻滅した事なんてない。ちょっとばかし、人並み外れて演劇に一途な所なんて、人らしくなくてそれこそ神様のよう。だから、高遠さんは私なんて見ていない。演技をしている私しか見てないから、あなたが好意的に接している後輩の私は演技が好きなのだから、私が、笑顔の裏で泣いてたって気付かないでしょう。あなたの幼馴染がすぐ気付いたとしても、高遠丞は決して気付かない。そんな彼がいいんだ。

「また観たいなと思える劇でした」
「そうか、あいつらにも伝えておく」
「……」

 そんな彼でいいんだ。私の演技で騙せて。単純で。

「俺はGOD座のやり方に耐えきれなくて出ていった。だけど、お前にはそのままそこで咲いて欲しいとも思っている」

 あなたはきっとずっと、勘違いしている。ずっと私の人生は演劇だと思っている。だけど私はあなたの大切な後輩なのだから、その演技を続けなければならない。次のページはきっと私の番。

「ありがとうございます、私、もっともっと、がんばりますね」

 なんて、私はあなたしかずっと、見えてないのに。

太陽は君が食べた