もし今、生活についてのアンケートがあるならば、私は自信持ってこう答えるだろう。
 『私は今の自分の生活に非常に満足している。』

 まるで人生勝ち組のような台詞だが、別に私は宝くじが当たったわけでも、大企業の社長な訳でもなく、まして、結婚した訳でもない。ただのレストランで働いている従業員に過ぎない。アルバイトで、所謂、私の職業はどうあがいてもフリーター。

 それなのにどうしてこうやってどや顔でいるのかと言うと、そこの待遇がめちゃくちゃいいからだ。時給がいいだけではなく、交通費支給、しかもしかもタクシーだとしてもしっかりレシートを貰えればそれさえ支給してくれる!やったね!

 あとは豪華なまかない付き。元が高級レストランだから、ただのまかないとバカに出来ない。裏路地のラーメン屋だったら休憩の5分間で具もないようなラーメンを啜れと言われるだろうけれど、つまりはそういうことだ。高いところならばそれなりに優遇がいい。世間体的な意味もあるのだろう。ともあれ、ここのまかないは持ち帰ってバイト後の夜食用にもしてくれる。
 もちろん、そんなところ応募殺到するが…ここがちょっとこの店の変なところで、面接には所謂、『顔審査』込みなのだ。それを言うのはもちろん世間さまだが、確かにここには美人しか見ない。私はというと、絶対合格者一人以上!と言われてるここの面接で、運良く少人数(それでも倍率はそこそこだけど)のときに当たったので、受かったのだろう。

 受かった当初はもしかして私ってば絶世の美女!?なんて勘違いしたけど、いざ職場に入ると、美女美女美少女美女、そしてもひとつおまけに美少女。ホステスクラブかと見まごう様に思わずクラッときた。こう言っちゃあれだけど、目の保養は少しでいい。こんなに多いと逆にギャグなんかじゃないのかって、私は一人笑いそうになった。

 美ウェイトレスばかりでこれはもしかしたらよくあるイジメとかあるんじゃないのか!?とも思ったときもあったけれど、予想以上にこの人たちは他人に興味がない。他人に優しいんじゃない。興味がないんだ。自分が良ければそれでいい。そして自分が一番だなんてはしたない主張もないから衝突もない。内側で何思ってるかは知らないけれど、周りに優しくするのはかえって冷たくして、後で誰に何かされるよりずっといいと思っているのだろう。
 ちなみに、下の者にはもっと優しい。つまり、顔面偏差値がこの中にいるせいで30弱くらいの私は大分優しくされていた。顔のハンデを背負った人間に対しての同情である。

 それだとしても、時給はいいし(一応)周り優しいし、私はかなり満足している。していた。はず、だったのだ。

「お待たせ致しました」

 にっこり。この店のフロアに出る前、一ヶ月くらい私は笑顔の練習をさせられた。アルバイトの5時間、全部笑顔の練習だった。出来なかったら殴られるとか、そういうスパルタではなかったけれど、先輩からのプレッシャーをひしひしと感じられた。そのおかげで、この通り完璧な笑顔をすぐに浮かべられる。胡散臭いようにも見えるかもしれないけれど、まあそれは人の考え方だ。男の人がぶりっ子を好きになる理由と同じ。所詮店員の対応をされていると客はしっている。だけど、それだとしても笑顔で対応されない方がいいなんてことは無い。可愛いは正義なのだ。

 ただ、今はわりと上機嫌だから、結構心から笑えてると思う。というのも、上がりまで後10分だったりするからだ。ここは日払いで給料がもらえる。もし、帰りにタクシーなどを使ったら次のシフトの時に請求して、その日の給料に上乗せしてもらえる。なんて素敵な生活だ。
 このお陰で貯金は溜まって行く一方。こういうちゃんとしたところにいるのだから、化粧品や、身の回りのものはちゃんとそろえなければいけないが、化粧品は控え室にいっぱいあるし、恵みたがりの美ウェイトレスに施しを受けたりもする。
 決して私は乞食じゃない、と思う。くれ、とは言ってないし。人から聞いたんだけど、「あ、この子またみすぼらしい格好してる。私がなんとかしなきゃ!」という保護欲が生まれるのだという。これを聞いた時、もし周りに誰もいないのなら大声あげて泣いただろうから、このくらいの待遇くらい見逃してもらいたい。

 かくして、このレストランで妹ポジションをゲッツゲッツした私は安定した生活を送っていたのである。もらっている給料の半分以上を貯金している話は、いつだったか広まったことがあったけれど、元々ここでバイトしている人たちはお金持ちが多い。小さな子供が、いや、小さなハムスターが、もらった餌を頬袋にぱんぱんと貯めて満足しているのを見ているようなものだった。くそまたかべなぐっちまった。

「ねえ、ちょっと!?どうして、ねえ、どういう事なの……!?」

 上がりが近いから上機嫌だなんて我ながら単純だなあと思う。でも、今日は帰りに頑張った自分へ美味しいケーキを買うことを決めていたので、本当に楽しみなのだ。いい給料をもらっていても実際に私の生活が変化した事はそうない。コンビニでご飯を買うのが増えただけで、貰い物以外の持ち物はそう変化してない。でもでも今日は1ピースが軽く四桁のケーキを買って帰るのだ。ああ、単純。

「何で……っ何でいきなり別れろだなんて言うの!」

 ああ、そういえばさっきから後ろでずっと喧嘩のような声が聞こえると思っていたら、別れ話だったようだ。よくあることだ。最後の思い出にこういう高いところにつれてきて、そして、バイバイ。何組もそれで別れている人たちを見た。
 ただ、こうも騒がれると迷惑なのでさっさと支配人を呼ぶことがある。金を出してくる以上は客だが、騒がれてもにこやかに接客しろだなんて難しい。そろそろ呼んだ方がいいかな、と軽く辺りを確認しようとした、時、

 ぽーんっ!びちゃ!

「………え?」

 そのくらい。簡単な音。だった。人体と言うのは私の思っていたよりも、ずっとずっと柔だったようだ。相手をまくし立てるように叫んでいた女性は無音で切り裂かれ、ぽーんっ!と生首は飛び、びちゃ!と音を立てて、私の持っていたトレイに、乗った。
 きょとんとした『クビ』についている目と、私の目が、合う。じょせいのくびが、とれいに、ある。

「っっっ!!?!?」

 ようやく事の重大さに気付いた私は、トレイを手から滑らせてしまった。人の首は重いと聞いたことがあるが、本当にその通りで、いや、いや、いや、違うだろ!
 落としたことにより、鈍い音が部屋に響き渡る。そこでようやく、周りの人の目がこちらに向いた。お客さん、同業者、そして、喧嘩の騒ぎを聞いた支配人、目、目、目。もしかして知らないうちに私はドレスも着ずに舞台に上がってしまっていたのかもしれない。

「きゃああああああ!!!」
「死んでる!!」
「う、うわあああ!!」

 ど、っとまるでひっくり返した水のように、叫びの洪水が押し寄せた。耳が痛くて仕方がない。あまりにも周りが叫んでいるせいで、私は叫ぶことを忘れてただ目の前の男を凝視した。何も変哲もない綺麗な男だ。だけど。彼がやった。彼がやったんだ。
 一番彼の近くにいた先輩が甲高い声をあげていたのだが、いつの間にか止んでいた。地声が特徴のある高い声だったから、尚更耳にひどい声だったというのに、首を跳ねられてはもう声なんてあげられないのだ。他にも、その付近の男性客も殺されていた。その張本人は声を出されて不機嫌、という訳ではなく、この大混乱が楽しいようで、薄っすら笑みを浮かべていた。

 喉の奥で何かがくっついているよう。先ほどキッチンに戻った時に水分補給をしたはずなのに、一気に砂漠化した。だけどぶっ倒れずに立ち続けていた。ここで少しでも、ほんの少しでも力を抜いたらそのまま地面に張り付いてしまう気がした。だけど、私の足元には首があるし――ああ、そうだ、立っているんじゃなくて、足が地面に貼り付いているからどうしようもないのだ。この感覚は覚えがある。ああそうだ。笑顔練習の一ヶ月だ。立ち仕事なのだから立って笑顔をし続けろと言われたあの一ヶ月。最終的には立っているのか立たされているのか分からなくなってきた。その感覚だ。

 男とは2メートルくらい離れてる。だけど目が離せない。彼がこちらを見ているからだ。こうやって人が見ている時に、何もなしに目を離す事はできない。

「あ……ああ……」

 心臓が射抜かれたような感覚。トキメキとかそういうのは全くなく、物理的に刺さっているよう。笑いたくなった。いや、フロアに出ているのだから、私は笑わなきゃいけないかもしれない。この場で場違いだろうけれど、私がここで学んだのは強者への諂い方。そこに自分を守るためのものなんてない。

 彼の目は、待っている。私が次に何をするか見ているのだ。

 未だ叫べず、泣けず、ただ私は見ていた。もし今ただの一般人としてここにいたのなら、彼を罵る言葉さえも出ただろうが、今はウェイトレスだ。そんな事は言えない。だけど、それを言われてもおかしくない事を彼はしている。店員として、対応しなければ。

「――お帰り、頂けますか」

 私の声は悲鳴の中に消えただろう。

「お客様」そして、深く一礼。



 交通事故を起こしたら必ず警察に連絡しなければならない。
 例えそれが被害者だとしても加害者だとしても、示談というものは通じない。事故に軽い重いという考えはいらない。そうやってあやふやにすると、罰する時に不便になるだろう。それと殺人を比べるのもおかしいが、殺人なら尚更だ。殺して何もしないというのはおかしい。生憎私にはその経験がないので、殺した後の事はどう処理するのかよくわからないが――

「――よし、それじゃあ帰ろうか」

 家に帰るのは違うと思う。

 人の声がなくなった頃、フロアの時計は59分を差していた。この場で立っているのは私と、あの男だけで、第三者が来たらまた一層騒ぎを立てられそうなこの空間で、悠然とコートを羽織っていた。
 あちこちに歩く彼と違って、私はずっとあの場所で立ったままだった。一点だけを見つめて、横で前で後ろで、誰が死に絶えようと、私はその場から動けないでいた。きっと一番おかしいのは私だった。周りの逃げ惑う行動が当たり前だっただろうに、私はそれが変で変で仕方なかった。数ミリだけ、タイミングがずれていたのだろう。そこがカチリと合えば、私だって他の人と同じように走り回っていただろう。

「君のバッグって、どれ?」

 そういうと、男は数十人分のバッグを私の足元に放り投げた。一つ、バッグの紐が私にぶつかったおかげで、ようやく私の足は体温を取り戻したようになった。丁度、時計は0分になったようだ。
 このバッグは全部私の、という訳ではなく、更衣室の鍵付きロッカーにしまわれていた女性店員のもののように見えた。見覚えがある。昨日発売したばかりのバッグや、オーダーメイドで作られたというもの。その中でも私のは一際目立っているようだった。可もなく不可もないようなブランドのバッグ。これでもマシになった方だった。ここに入りたての頃は雑貨屋の安いバッグだったし。

 それを取り上げると、肩にファーのついたコートをかけられた。私のではないが、誰のでもないような、ショップそのままの匂いがした。これはあの女性が店に来る時に着ていた気もするが、あまり考えない方がいいのだろう。嫌な思考を飛ばすのは、この仕事を初めてから、得意になった。

「丁度、お世話をしてくれる人が欲しくてね。ここの2倍の時給は払うよ」彼の喋る言葉はまるで別の世界の言葉に聞こえた。きっとそれらは私に言っているのだろうけれど、それらの言葉を理解するまでに次の言葉が推し流れてくるから、私はただぼんやりと頷くしか出来なかった。「家の中にいてくれるだけでいいから危険もないしね」
 ――あれ、カバンなかった?と彼が言うものだから、そういえばと、私は自分のバッグを手にとった。今の私は10年前のPCのようだ。いっちょ前にうるさくファンを鳴らして動いてますよとアピールしてみせるけれど、結局進んでいない。極めて人間に近い人形かもしれない。

 指示を待つ新人スタッフのように私は彼を見ると、男は私の肩を優しく押した。その手で何人も、何十人も殺したというのに、柔らかく人に触れる事が出来るようだ。どうやら店の外に出るみたいで、ご丁寧にもテーブルの隅に2人分の現金を置いてから、まるでただの一つの食事を終わらせたかのように、歩き出した。「料理、美味しかったよ」

「ちょっと家まで遠いから車乗るけど、車酔いする?――そう、しないならいいや」

 仕事の時間は終わったから、もう私は自由なんだけれど、まだバックに戻っていないから、着替えてないから、上がってない。まだ働いているような気がして、まだ、仕事中から解放されてないようだ。

 それにこの男は、人を殺していた時と違って今はどこか穏やかな空気をまとっているせいで、彼の性格が掴めない。これで会話が出来ない程の異常者ならば、ただ私は怖がるだけで良かったというのにややこしい。今の彼は怖がる要素はなく、ただ何だか馴れ馴れしい人のレベルだ。
 この肩に触れている手に少し力入れるだけで私は殺せるだろう。だけど今触れている手のひらはそんな事をするようには思えない。爪は長いけど。

「10時までに駅に行きたいんだよ」

 返事をしない失礼な私に気にすることなく、彼は一人話続ける。無視をしたい訳じゃないが、いう言葉をぐるぐると、ずっと探しているのだ。あの時はとっさに帰ってくれと主張したが、それは思わずだったし、勢いで言ったのもあるから、それ以降は何も喋ってない。何度か口をパクパクさせたような気がするけれど、どれも間違いのようで、私は沈黙を貫いた。脳はまだ彼を怖がっているのだ。
 転ばないように、足手まといにならないように、私はつま先を見ながら歩いた。「君は甘いもの好き?」

「今日はケーキを食べようと思ってね」

 思わず顔をあげて彼を見た。まさかそのフレーズが出ると思ってなかったからだ。そうだ、それは。「私、も、です」

 ここから一番近い駅周辺に、夜10時まで営業してるケーキ屋がある。確信はないけれど、すぐにそこだと思った。私も今日そこのケーキが食べたかったんだった。甘いものが特別好きな訳じゃない。だけど、たまにの贅沢品には丁度いい。

 突然顔を上げ、声を出した私に驚く事はなかったが、それでもどこか愉快そうな目を彼は向けた。先ほどまでつっかえていた喉の奥のつっかけはパッととれてしまったよう。止まっていた心臓が再び動き出したように、うるさく感じた。

「私も駅前のケーキが食べたかったんです」
「そう、同じだね」
「……あそこのは美味しいから仕方ないです」
「君は何ケーキが好き?」
「なんでも。いつか、あのケーキ達を全部食べるのが夢なんです」

 この殺人鬼も自分と同じ物を食べたがっていたのは、不思議だった。面白みがないと言えばそうなんだけど、人間を食べてますと言われた方がすんなりと納得したかもしれないし、そのまま気持ち悪がったかもしれない。でも思えば彼はここの料理を食べにここに来たのだ。ここは普通の、ただのレストランだ。普通の、さっきちょっと死傷事件が起きただけの。
 普通に車を運転している様も不思議だった。運転は凄く穏やかで、車が良いという理由もあったかもしれないけれど全く揺れなかった。スピード制限を守っていたからか後ろから煽ってくる車がいて、それをミラーで見る訳でもなく、ただ真正面を見ながら「殺しちゃおっかな」なんて呟いた時にはさすがに目を見開いた。その私の反応が面白かったのか、彼は少し声を出して笑ったきりだったけど。

 そして店に着いて、端から端までのケーキを1つずつ選んだのもやっぱり不思議で、何も知らない店員さんはこのイカれた殺人鬼をまるでお得意様のように丁寧に接客をするものだから、指刺してこの人危険な人ですなんて言おうと思ったのはほんの一瞬で、まるで蚊帳の外の私はただ、箱に入れられるケーキを眺めているしかなかったのだ。



「基本的にボクはこの家にいないから、掃除終わったらこの中で好きにしていいよ」

 「この中で」とは「この中だけで」の意。それはつまりここから一歩も出るなと宣告されたのだ。とは言え、脱出しようという気にもなぜかならず、気がつけば一週間・ニ週間とすぐに過ぎた。その中でヒソカがここに戻ってきたのは、彼の行った通り二割ほどだった。時が経つにつれ、私がこうして問題なく暮らしているのに違和感も感じなくなった。

 男・ヒソカから案内された家はとくに何でもない住宅街にあり、部屋が一人暮らしするのには不要なほどあった。まるで3,4人家族が住んでいても不思議じゃない一軒家。きっとそれは多分、なんらかの事情で家主などがいなくなり、そこにヒソカが住んでいるのだろうと考えた。なんらかの事情なら仕方ない。そう納得した。

 男性の一人暮らしだったが、元々部屋にいないのもあって、あまり表立って汚いという所はあまりなく、部屋の隅に汚れが溜まっている程度だった。それにヒソカは物を広げられるほど何も持っていなく、マイホームと呼ぶよりここは休憩所だった。

「ただいま」

 ヒソカが帰ってくる時は、恐らく玄関から入ってきているだろうに、こうして背後で声をかけられる時までは全く気づかない。それにどうしても慣れなくて、私は肩を揺らして驚いた。

「ヒソカ、さんっ!」「だからそれ、びっくりするんです」うっかり手に持っていた壺を抱きしめながらそれよりも先に言わなきゃいけないことを思い出す。「おかえりなさいませ」

 最初の一週間は雇い主なんだしということで『ヒソカ様』と呼んでいた。だが、それに疑問視をあげたのはヒソカ本人だった。一緒に住んでいるのに『様』はおかしい、と。一緒に住んでいるという発想こそに異論があったが、ともあれ、呼び捨てに呼ぶのも個人的に気が進まなかったので、『ヒソカさん』と呼ばせて頂いているのだ。

「ん~、新鮮で面白いよ、君は」

 首元に腕を絡められ、少しばかりの抵抗をしてみるが、ぴくりとも動かない彼の腕にもう恐怖を抱くことはなくなった。「あ・つ・い!です!」というのはとりあえず。面白いと感じられているうちはきっと私はころされない。ヒソカの中で私はきっと喋るペットで、ソレ以上でもソレ以下でもない。もし私の反応より、「死」の方が面白くなれば、腕を組むよりも簡単に呼吸するように首が飛ぶのだろう。

「ああ、はい。お土産だよ」
「……ありがとうございます」

 腕を戻したヒソカに渡されたのは紙袋で中にはルームウェアがいくつも入っていた。ヒソカは出かけると、お土産と称して私に日常品をくれる。初めの日は何人分なのだという量のもの――例えば化粧品とか部屋の中なのに指定の仕事着とか、下着とか――をくれたが、ある程度揃った今はポツリポツリと色んなものをくれる。ただ、普通の服というものはくれなくて、なぜかというと私はここでメイドとして働いている体だからだという。
 彼から貰った仕事着は全て前働いていたあの店の制服に似ているもので(ちょっぴり引いたというのはあるが)基本的に私が着ているのはそういった服だ。

 物を貰うものに慣れていたのは「前の」バイト先のせいだろう。最初はチラチラ見ながらも遠慮などしてはみたが、結局それが私の為に用意されているのなら受け取った方が断然いいし、相手の経済状況を考えると私が受け取らなきゃ捨てるだろう。今も昔も変わらない。厳しくもなく、とくにつらくもなく、ぬるま湯のようなコースだ。前は妹ポジションで、今はペットポジションなのだから落ちたと言えば確実に落ちたけれど気にしない。

「今日は何を作ったの?」
「カレーです」
「あー普通だねえ」

 ヒソカは想像以上に、私に普通を求めた。いや、求めていると面と向かって言われた事はないが、彼の言葉とは裏腹に、私のする普通の行動を喜んでいるように思えた。
 普通に起こし、普通に掃除をし、普通に過ごす。特別なことはしていない。美人を雇う以外はただの高級レストランだったあの店に来てたくらいだから、高くて美味しいものしか食べないのかと思ったけれど、そんな事はなく、むしろ私が味付けに失敗したものも物珍しそうに口にしていた。もちろん想像よりまずいと言って、笑っていたけれど。

 びっくりする程順調だ。異常だというのに、明日も昨日もとくに何も変調のない日々。私は何も特別じゃない。私のような平凡人なんて腐るほどいる。たまたま奇跡的にヒソカの目に映っただけで、こうした生活をしているだなんて世の中よくわからないものだ。

「普通ってことはないですよ。デザートも作ったんです」
「何を作ったの?」
「杏仁豆腐です」
「そう。普通に楽しみだなあ」

 きっと終わりが来るのは死しかないだろう。



 すっかり忘れていたけれど、私はここに連れられて来たんだった。仕事意識とかは普通の人以下だろうけれどちゃんと働いてはいるし、すっかり落ち着いてはいたけれど、ここは私の家ではない。

「お前誰だよ……」

 そう言われたのはリビングの掃除をしている時だ。バタンと大きな音を立て、玄関が開いたのだから今日こそはヒソカの入室現場を見てるのだなと、平然な顔をして清掃を続けていたのだが、リビングへ入ってきたのは見たことのない人だった。
 すぐさま脳裏に浮かんだのは家主だ。すっかり慣れ親しんでいたこの家だが、元家主の行方は聞いてはいなかった。聞きたくなかったのもあるけれど。私が勝手に納得して蓋をしたってのもあるけど。

 まずいと思った時にはもう既に遅く、彼はナイフを持ってこちらに走ってくるのが見えた。誰というクエスチョンに答える暇も、説明させてくれる暇も与えてくれないようである。とりあえずリビングのテーブルへ移動し、思い切り持ち上げると、勢いを止められなかった彼はそのままぶつかったようだ。振動が裏で抑えている私にまで伝わり、頭を打った。

「っ………」

 くらくらする頭に構うことは出来ずに、そのままテーブルを彼に倒し、そしてその上に更に椅子をぶつけると、私は二階へと素早く逃げた。リビングを出て行く際に、少し後ろを確認したが、テーブルの下にいるだけで彼は動きもしなかった。

 二階は寝室が三部屋ある。私のとヒソカのと、謎の予備だ。ちなみに誰ひとりとして泊まりに来たことはないし、今度とも連れてくることもないだろう。きっと。
 ともかく私は、もし来た時に自分の部屋を荒らされたら嫌だと頭の中でどこか冷静に考え、予備の部屋にはいった。だが、ここには身を守るものすらなかったことに気づく。いや、あるのかもしれないけれど、この部屋はベッドがあるだけで、とくに何もない。普段何も使わないからこそ、何があるか分からない。掃除をするのも稀だし、ここは少し前に虫が大量発生して以来、来るのを避けていた。押入れに隠れるはNGだ。
 どうしよう、脳が聞いてくるようで、心臓が早くなった。こういう時ドアの後ろに隠れるのが一番良いのだっけか?いやでも確実に狙えるものがここにはない。銃や、そうだ、一階にあるあの大きな壺があれば良かったのだ。

 そうこうしているうちに階段をのぼる音が聞こえた。ドタドタとしているその音は、この家じゃ滅多に聞くことがないので新鮮だ。

 彼がどんな人間なのか分からないし、知らないが、足はすくむことはなかった。今だって至って落ち着いていて、100%平然としている訳ではないだろうけれど、余計な事を考えられる余裕もある。

 こうして考えると、やはりヒソカが特異なのだ。まあもちろんあれを基準として考えればほぼ全ての人間が普通の人になるだろうし、実際にヒソカが人を殺したシーンを見たのはあれだけだ。きっといつか殺されるだろうなという意識はあるけれど、それ以上、それ以外、ヒソカの中身は分からない。だけどそれでもその記憶は色褪せることもなく、風化もせずに、私のヤバイランキング1位を飾っている。一因としてこんな閉鎖的なところで過ごしているからもあるだろうが。

 殺されるかもしれないこんな状況でこんな余裕ぶっているのも大概だろう。どんどん神経がおかしくなっている自分にようやく気づいた。そういえば私はどうして外に、

 ――ドン、と音を立てて部屋に入ってきた。私はただ部屋のど真ん中に立っているだけだ。手には今度は拳銃を持っている。私は首を動かして相手を見た。相手の顔は、あたかも私が両親を殺した仇かのような目をしていた。それにはさすがにショックを受ける。私はただ過ごしていただけだというのに。
 そして、上から下まで私を、それから隅から隅まで部屋の中を何度もジロジロと見た。私が何か持っていないか、何か仕込んでいないか探しているのだろう。さすがに体は動かさないみたいだが、首をグワングワン動かして確認しているおかげで、私は彼の顔をほとんどの角度からしっかりと確認が出来た。若い男だ。恐らく、私より少し上くらいの。

 彼は私に銃口を向けると、一発撃った。そう確認出来たのは後ろの窓ガラスが割れた音を聞いてからだろう。私のイメージではガラスに銃弾がめり込むものだと思っていたけれど、派手な音を立てて壊れた。まるで凍った氷が割れるように、綺麗に破壊した。細かいガラスが顔や腕や足をかすれて、血が出る。

 それをゆっくりと見ていた。腕をさする余裕さえあった。ああ、彼はあまり銃に慣れていないようだ。それを知れただけで強気になれた。ヒソカならもう殺されてた。そう思えた。きっとまだ私は死なない。

 そうだ、武器が出来たのでは、と、私はその割れたガラスの破片を持つと、じわりと指から血が出るのを感じた。痛いのには慣れてないが、いかんせん、脳がぼうとしているせいで、判断力が鈍る。何かを噛ませて持てば良かったかもしれないが今は時間がない。

 男は私を信じられないものを見る目で見る。私をまるで親を殺した仇のように、私をまるで、イカれた殺人鬼を見るような目で見た。

悠久の毒