もし今、生活についてのアンケートがあるならば、僕は考えた後にこう答えるだろう。
『私は今の自分の生活に少々不満を感じている』

 少々という言葉は便利だ。声を荒らげて不満を言う程ではないということをささやかに主張が出来る。そう、ほんの些細なことなのだ。スープを飲んだ時にもうちょっと塩味欲しいけれど、飲めなくもないからまあいいやという話。そして塩を入れてみたって、どうにも物足りなくなる時だってある。実は胡椒だったとか、はたまた砂糖だったとか。1℃上げた温度をなかなか下げられないとは言うが、どう1℃上げればいいのかわからないのだから、嵌まりようがない。それでも何か足りないと嘆いている。

 人生というものはこんなものかもしれない。欲があってこそのこの生涯。むしろ、何も求めずに暮らすことの方が自堕落的だ。何もないにせよ、わざわざ主張する程のものがないにせよ、何か何かと貪欲に生きるべきだろう。現状に満足するだなんて面白みがない。与えられたディナープレートに満足出来るのなんてその一瞬だけだ。

 そうやっていつだって何か手探りするように、腕を伸ばしていた方が思いがけないチャンスを掴む時だってある。それを運命だとか必然だとか、そういった陳腐な言葉を貼り付けたりはしないけれど、案外世界のルーレットはワンパターン。サイコロを振ったってどうせゾロ目しか出ない時だってあるし、シャッフルしたデッキからひいたカードなんて分かるはずが――というのはなく、それを選んだのも全部自分だろう。言うならば全ては自業自得であり、道を右か左か選ぶだけで大きな違いになっているかもしれない。

「ねえ、何を考えているの?」

 そう言って腕を絡めてきたのは先日出会った女性だ。髪の毛から漂う甘いバニラの香料がふわりと、鼻をかすめる。まるで猫のようなアイメイクを纏った目はキラキラと、そして決していやらしく感じないボディタッチの仕草からはこれまでの男性経験の豊富さを物語らせる。
 彼女とはそれこそほんの些細な出会いではあったのだが、彼女がコレと思ったものには一直線な性格だからか、今のところは好調に付き合っていた。ああ、そういえば今はデート中、なんだっけ。眺めていた夜景はなかなか姿を変えないから、いつから眺めていたのが分からない。変化といえば、遠くに見えるホテルの明かりが消えただとか、そんなしょうもないこと。

 不満そう膨らます頬に手を添えて、僕は頭に浮かんだ適当な言葉を囁く。

「君のことだよ」

 寄せた腰は楽譜をなぞるリズムのようで、自然に。



 乱雑に荒れたリビングで、倒れたソファーを直すわけではなく、その上には座っていた。彼女とここで暮らし始めたのは半年と少し前の事。何となくで雇ってみたものの、誰かが待つ家というものはどこか面白かった。

「いつの間にか、勝手に死にました」
「隠れでもしてたの?」
「いいえ、目の前で見てました」

 この惨状に、彼女の身にも何か起こったのかと思ったけれど、傷は手の平の切り傷のみで、挙げるならば精神的なダメージのみだろう。住宅街のど真ん中だというのに、誰も駆けつけなかったというのは、ここで暮らしていた人物の防音の念(それだけでもないのだろうけれど、確認出来たのはコレと、それから防災だの、どうでもいいもの)が続いているせいか、お陰か。死後もマイホームを守ろうとする意思だけは強いなと思った。しかし強いというのはも同様で、僕がリビングに入る時は必ず、が何か作業をしている時にそっと、というのが常だったので、今日真正面から姿を確認した際に「入ってくるの、初めて見ました」と眠っていたらしい彼女がぽつりと言えるぐらい、呑気ではあった。

「追われて、上の階に逃げたんですけど、あの空き部屋に」
「うん」
「そういえば、この部屋何もないなって思い出して」
「そうだね」
「だから仕方なしに、窓ガラスで応戦しようとしたら」
「手を怪我したと」
「はい」

 表情は淡々としていて、そういえばあの時もこんな感じだった。の働いていたレストランをめちゃくちゃにした日。泣きわめいたりとか、怒ったりとか、そういった大きな感情を出すことをなく、ただただ従っていた。感情がついていっていないだけかもしれないが、その様子は冷静そのもので、今まで普通に過ごしてきたとは思えないくらい、異常だった。
 座ったまま寝ていたせいでは身体の調子が悪いようで、肩のストレッチをした。

「身体、バキバキだ……」

 よく死ななかった、という簡単な感想が浮かぶ。この家に入り、ここまで荒らせるということは、アトランダムに訪れた空き巣というわけでもないだろう。確実に殺しに来たのだ。見に覚えは多いために、どれかは分からない。

「そう、大変だったね。今救急箱でも――」
「あ」は顔を上げた。「それよりも上の階、お願いします」
「……そういえば、死体の処理の話は聞いてなかったね」



「22時まで、ね」

 クローズと書かれた札を下げられたドアを僕は眺めた。評判のケーキ屋に来てみたのだが、もう閉店してしまったようだ。確かに生物なのだから、夜遅くまで営業している方が稀か。
 腕時計で時間を確認すると、今は10時と8分。ドアの向こう側に覆われたカーテンからはほんの少し光が漏れている。閉店作業をしているのだろう。この扉を乱暴に叩いて、適当な理由をつければもしかしたら、があるかもしれないけれど、そこまでして食べたいのかと言えばそうでもない。彼女に頼まれただけで、代わりにバッグや靴でも買って帰れば彼女は簡単に笑ってくれるだろう。そういえば一昨日、熱心に眺めていたものコートがあったっけ。その時は気分が乗らないからわざと無視して、買いはしなかったんだけど今日買っていこう。こんな些細な物事を保留しておくだけで、気配り上手だの褒められるのだから全く持って馬鹿らしい。

「あ」

 近づいてくる足音は聞こえていた。すぐ傍で立ち止まった女性は小さく声を上げた。その視線の先には先程の僕と同様に、ドアのプレート。焦ったような彼女はすぐさま腕についた華奢な時計を見た。しかしその時計はどうやら正確な時間を表していないようだ。チラリと見えた限りでは、それは一時間も大きくずれ込んでいる。

「もう10時過ぎているから、閉店してるよ」
「え、あ、そ、そうですね、そっか……」

 僕は腕時計を外し、彼女に見せると、恥ずかしそうに頷いた。「電池、交換しなきゃなあ」と呟いている様子からすると、丁度今日、切れてしまったのだろう。時計の電池が平均的にどれ程持つのかも分からないし、なくなる前に買い替えている。

「それ、買い換えた方がいいんじゃないかな」と、腕に時計を巻き直しながら、嫌味のつもりはなかったのだが、つい彼女の所々銀が剥がれた時計を見ては言わずにおえなかった言葉を吐いた。その言葉にますます彼女はいたたまれないような表情で俯く。

「本当ですね」

 発色の悪い安物の紅が目に入る。それなりの格好はしているし、想像より歳は上なのだろうけれど、どこか幼さが抜けない印象があるのは、他と比較してしまっているせいだろうか。こういった人とはあまり接する機会がないために、どちらが本当に一般的なのかは知らない。

「――買ってあげようか、ほら、そこの時計屋まだやってるよ」
「え、……え?いや、いいです」
「遠慮しなくていいんだよ」
「遠慮とかそういうのじゃないんですけど……」その目からは期待した奥底なんて見えなくて、多分、本当にやめてくれっていう感情なのだろう。そして「お金に困ってるわけじゃないので」と口早に言う。

 謙遜することが美徳だなんて古臭い。こうやって遠慮する事できっと彼女は損した人生を送ってるのかなとまで考えてしまった。全く持って分からない話だ。
 彼女は少し考える素振りをした後に、話題を変えようと、こちらに話を投げかけた。

「……あなたも、ここのケーキを買おうと?」
「そうだよ。恋人に頼まれてね」
「なら、代わりのものを買わなきゃいけないですね」
「一緒に買いに行ってくれる?」

 先ほど遠慮した時のように、顔をひきつらせた。冗談、だと言って笑ってみるが、彼女からは愛想笑いは頂けなかった。
 一度買ったものだけで充分だと、それだけでいいのだと思っているのだろう。現状に満足しているタイプ。それは僕とは真逆ではあるが、ただ一言反対だと表現するには大きすぎる区分に思えた。

「あ、もう30分になって……。私はもうこれで失礼しますね」
「……時計ないのによく分かったね」
「ここの駅のイルミネーション、この時期は30分置きに色が変わるんですよ」

 「知りませんでしたか?」と、彼女が指差す先はイエローが輝いていた。そういえば先ほどまではまばゆいピンクが目にチカチカしていたような気がする。とても他愛のない小さな変化だ。だけど先ほどまで見ていた風景だというのに、この風景はどこか新鮮に見えた。
 もしかして彼女はこうして周りの変化を受け止めて生きているのだろうか。自分が変わる必要がないと言うように、ただ甘受して、周囲に合わせて色を変える。そう考えると、彼女のような生き方も悪く無いのかもしれない。

「君、色は何色が好き?」
「え……?……黄色ですかね」

 きっとそれは別に好きでもない色だろう。目の前に瞬く色を適当に言ったようだ。だけど、脳裏に浮かぶのは先日見たコートの事。きっとあの店だったらよく利用しているし、今からでも開けてくれるだろう。あの、彼女がこの前眺めていたシャンパンゴールドのコートを買って帰ろう。



「ヒソカさんって何の仕事をされているんですか」

 随分今更な質問だった。は部屋を片付ける僕を横目に、窓の外を眺めながら言った。昨日、この家はどうやら本当にお祭り騒ぎだったようで、その暴れた神輿の後は玄関からリビング、そして階段を通ってこの部屋に続いてきた。ここまで自身の物を散らかしたことがなかったので少しだけ物珍しい気持ちはあったが、それは片付けを開始する前だ。作業中の今はそんな特異な感情など浮かばない。
 だがしかし、それらは全て昨日のことで、この見るも無残な部屋はともかく、死体まで放置されているとは何事か。寒い時期とはいえ、死後は腐敗が早い。この閉めきったドアの向こうは臭いが充満していた。この人の最期は自分で、だったという。はほとんど無傷だったので、取っ組み合いのような乱闘はなかったのだろうが、妙な話であった。

「秘密」
「……そーですか」
「それよりさ、君も手伝ってくれないかな」

 死体の処理については、まあ僕がやるのは構わないが、他の片付けはむしろ本職のはずだ。それを問うたものの、はシレッと言う。「これ、ヒソカさんのせいですよね。何の因縁なのかは知りませんけど、こんなに荒らしたのはあの人ですし、その種を持ってきたのはヒソカさんですし」

 どうやらこの件に関しては完全に僕任せのようである。急を要するような用事は特にないし、言うならば暇ではあるので、片付けるのは構わないのだが、どこか納得はいかない。とはいえ強引に従わせようと思うほどではないので、わざとらしく物を投げ乱暴に整理をしていると、からの叱咤が飛んだが、ハイハイと適当な返事で流す。

「頭を打ったんですよ」

 はテーブルの上にあった拳銃を取り、頭に押し付けた。

「躊躇いもなく、自然に打ったので止められなかったです」
「止めたかったの?」
「……うーん。実際、目の前で人が頭に銃突きつけていたら、止めたくなるんじゃないですかね」

 それはどの層での一般常識なのかは分からないが、は至極当然のように言う。
 彼女は変わらないようで、変わっている。どんなに環境を圧迫しようとも、変化を止めることなど出来ないのだ。圧縮袋に物を入れて、小さくしたって物は変わらない。僅かな抜け道があればそこからじわじわと侵食していく。名前は変わらずとも、移ろいを防ぐことはできないのだ。
 それでも、彼女は僕とは違う道を進んでいる。右でも左でもない道だ。僕が想定していなかった道を彼女はどうしてそっちに向かうの、という目で見ながら進んでいく。その足取りは、その表情はいつの間にか変わっている。だけど、変わらない。

 が人指し指に力を入れるような動作をしたので、僕はその拳銃の先を天井に向けた。一瞬で間合いを詰めた僕に驚いたのか、それともこのよく考えれば矛盾したこの行動自体がおかしかったのか、彼女は少し間を置いて笑った。

「引かなきゃ打てないんで、大丈夫ですよ」

 手を開いて、銃は床に落ちた。

「驚きはしたよ」

 現にこうして、トリガーを引く彼女を止めた僕が何か言い訳出来るかと言えば出来ないのだが、かといって、誰彼構わずこうして止めようとは思わない。むしろ、ここで彼女が死のうが、ただ処理する死体が二体に増えただけでどうってことない。

「普通にね」

 どうってことないというのに。

刹那の雪