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「ぬ、ぬかるみが…っ」

 が小さくそう言ったように、周りも同じ事を思っていたようだった。

「足がもつれそうになるな…」
「……もうマラソンはウンザリだ」

 周りはの走った分プラス、6時間多く足の筋肉を使っていた。立っているだけも筋肉を使うが、走ったと立っていたでは、明らかに走った方が疲れが溜まる。
 そして彼女が、注意しながら走っているのは、ぬかるみに嵌らない為、ともう一つあった。のブーツには、車輪や、他の物が仕組まれており、それらを使うのにただの平地としか想定していなかった為に、こんな所でぞんざいに扱ってしまっては、もしかしたら不具合が起きるかもしれない。出来うる限りぬかるみの無い所を走りたいが、ここまで周りに人が居るのでは無理だろう。
 それをレオリオも思ったのか、に笑いかけた。

「もうちっと、広い所で走りてーよな」
「だね。…でも、ペース崩したらやばいよね」

 遅くしてしまっては、先頭が見えなくなってしまうかもしれないし、早くしてはコレからが持たないかもしれない。試験官であるサトツはまだ、どこまでどの位の時間をかけて行くのかを言っていない。
 と、そこで目の前が揺らいだ。

「…霧か。……、転ばないように心がけろよ?」
「こ、転ばないよ!!クラピカこそ…、どうせ顔面からコケる!」
「そんな予想すんなって…」

 しかし、本当に転びそうになるほど、視界は最悪だ。前列の人らでさえ、見失ってしまうほどになってきていた。は湿気ばむ顔に張り付いた髪を掻き揚げた。

「レオリオー!クラピカー!!キルアが前に来た方がいいってさー!!」

 そんな声が、前方から聞こえ、は二人を見つめる。

「ゴン……」
「ゴン?」
「ああ、俺らの連れなんだ。…ドアホ!行けるならとっくに行ってるわい!!」
「…な、なんて言うか隣にいるのが恥ずかしいよ…」
「………私もだ」

 そして、レオリオと前方にいる少年の会話が終わると、レオリオはかなり疲れた、という表情をして、必死に走った。あんなに大声を出したのならしょうがないだろう。はそんなレオリオを見て、ますますここは機械を借りず自分の足で歩くべきだと、強く思った。
 あの6時間、は『ズル』をしていたと言えばしていたが、していなかったと言えば、していなかった。物の持ち込みは何一つ禁止されていないし、それに、あのブーツは自身が作ったもの(ブーツ自体はそこらの靴屋で売っていたものだが)だから、アレは自分の能力を生かした結果だ。だけど、あれこれ考えていたって、こんな所でブーツを使いたくない。
 丁寧に扱わなくては、と思っているとは思いっきりぬかるみに嵌った。

「ぃぎゃあ!」
「……?」
「…は、嵌った…」

 わざわざ、クラピカとレオリオは立ち止まって、の前に立つ。それに申し訳ない気持ちと、先ほどとクラピカの言葉を思い出した事で、は赤くなった。

「こ、転んではないよ……?」
「……いいから・・・誰も責めねえから、さっさと走り直そうぜ」
「正論だな。それに、後ろの受験者にも迷惑が……」

 そこで、クラピカが後ろを振り返る。けれど、後ろも霧が濃くて、どうにも見えそうに無い。だけど、どこかから足音は聞こえるので、置いてかれている訳じゃないだろう。は、何かに気付いたように声を上げる。「後ろ…」

「…後ろに……誰も、いない」
「は!?おいおいヤベーな、俺らそこまで…」
「違う!……いなく…なった?」

 そのの一言で、クラピカは背後の物音に耳を潜めた。

「……悲鳴が聞こえる」

 しかしその悲鳴と言うのはすぐ前からも、一般人のレオリオにも聞き取れるほどはっきりと、大きく響いた。三人が、一斉に顔を合わせた。

「パニックに巻き込まれちまったみたいだぜ…」
「どうやら、後方集団が別の方向へ誘導されていたみたいだな」

 このままでは、三人ともおかしな場所に行ってしまうか、時間切れでハンター試験が終わってしまう。そう思ったは、すぐにポーチから小さな機械を取り出し、それを上空へ思いっきり投げた。
 それはある一定まで上がると、羽を広げてさらにさらに登っていった。そして連動しているケータイを開くと、まだ少し先に、人の存在を確認出来た。

「…、今のは?」
「カメラ内臓の超小型発信機。……うん、大丈夫。まだ道は逸れてないよ」
「俺今、本っ当にが居てくれて良かったと思ったぜ…」

 やれやれ、とレオリオは、ケータイを難しそうに見るの頭をぽんぽん叩いた。それにはむっとしたけれど、今またそれを掘り返すと、レオリオもあの状態になってしまう。だけど、ちょっと良いとは言えないむっつり顔でケータイを閉じた。発信機は、こちらが操作しない限りずっとそこに浮いているだろう。この情報を見ずにこのまま辿り着くとは思っても居ないので、そのままにしておく。

「ぎゃ!!」

 と言う叫び声とともに、まるで切り裂かれるような音が耳に届いた。その声に、は止まっていると目の前に何かが、霧を突き破って来るのを感じた。

「くっ!」

 完璧に出遅れ、ソレがぶつかると諦め目を瞑っていただが、一向に当たる気配はない。恐る恐る目を開けると、クラピカがの前に立っていた。その手には、自らの鞄から取り出したであろう末端が鎖で繋がられた刀を持っている。

「あ…、ありが、」
「ッぃ、ってえ───!!」

 クラピカとは、ギリギリの所で避けられたのだが、全く予想していなかったであろうレオリオは、向かってきたソレが腕に刺さる。どうやら、ソレはトランプだった。はその柄の無いトランプに見覚えはあった。だが、それはあまり考えたくは無い。
 そうこう考えているうちに、その人物がゆっくりと此方に歩いてきた。

「てめェ!!何をしやがる!!」
「くくく、試験官ごっこ」

 丁度、この辺りの霧が晴れたのか、視界が良くなる。が、その視界に映るものもまた、『良い』ものとは限らなかった。確実に、ヒソカが投げたであろうトランプが刺さりピクリともしない即死の人・苦しみ悶えている人。

「二次試験くらいまでは、大人しくしてようと思ってたけど…」

 今、人を何人も殺したとは思えないほどの笑顔で、ヒソカはトランプを切る。その様子に、はゆっくりと後退しようとすると、ヒソカは一瞬だけこちらを見た。

「…っ!」
、落ち着け、……俺達が何とかすっから」
「何とか…出来ればいいのだが、な」

 先ほどの事もあってか、レオリオとクラピカはの前に立つ。は二人の背を見つめていると、急に疎外感に浸った。

(目の前で助けようとしてくれているのに何でわたしは?武力ではなく知力で合格できると思っていた、けど、これはただ人を盾にしているだけじゃないのか?)(力っていうのはそんなんじゃない)(人を踏み台して這い上がったところで)

 ぐるぐると、思考を廻らせているとヒソカの周りに居た人々は一斉に彼に襲い掛かる。多勢に無勢。とはよく言ったものだ。

「あっはっはァ───ア!!」

 大勢を相手に、ヒソカは高笑いをあげながら手に持ったトランプ一枚のみでなぎ倒して行く。その全てが、上半身、いや、顔や喉を狙い、彼らはいつの間にか刺され苦しんでいる。先ほどまで、嫌な賑やかさはあったが、今では何一つ声はしない。皆、死んだからだ。

「君ら全員、不合格だね」

 くる、とこちらを見た。今この場には、クラピカ、レオリオの他にももう一人受験者がいる。「残りは君達3人だけだ」

「……3人…?」
「そ。その子は……ダメなんだよねえ、本当は相手したいんだけど」

 ヒソカはを指す。何が『ダメ』なのかは分からなかったが、安心した反面やりきれない顔した。この場ではに手出しをされないのだろうけれど、クラピカやレオリオは違う。それなのに、一人部外者のように外に居ていいものなのか。

、分かったのか?」

 ぼーっと、考えていたせいか、一緒に居た(『3人』に含まれる)76番の提案を聞き逃してしまったようだ。慌ててクラピカに小声で聞いた。

「な、何?」
「皆で一斉に引く…誰かと一緒ではなく、一人で、だ」

 それは、の身を案じてだった。だったら、もう狙われないと分かっているのだから残ろうと、誰かと一緒に行こうが勝手だが、もしもの事がある。
 はあまり納得してなさそうな顔をしたが、それを前にいるクラピカが見えるはずがない。曖昧に肯定するような返事をすると、76番が声を上げた。

「今だッ!!」

 ダッ、と皆が走り出すのをはただ見ていた。クラピカと一瞬目が合ったが、きっと、彼は彼女が出遅れただけだと思っているのだろう。現に今も後ろを向かずに走っている。

「なるほど好判断だ。……でも、君は?」
「……わたしは、通さないから」

 ポケットナイフと、手榴弾を取り出し、戦闘体勢に変わるを見て、ヒソカは面白いものを見たかのように口先を吊り上げて笑う。

「君は面白いね。どうやら、慣れているようだし」
「……?」

 何を、慣れているのかは分からなかったけれど、は油断せずにヒソカを見つめる。不思議と足は竦まなかった。そして、よく見えるようにとゴーグルをかける、と、誰かの気配を感じた。

「やっぱやられっぱなしは駄目だわな。しかも、がこうやって頑張ってるっつーのに」
「……レオリオ?」

 がまさか、と首を傾げてはみたけれど、どう見てもあれはレオリオだった。

「気ィ長くねーんだよォ!」
「…んー、良い顔だ」

 目の前でレオリオは木の棒を振りかざしているのに、ヒソカはとくに変わりもしない様子でポツリと言う。その余裕な表情のまま、振りかざした棒を避けると、レオリオに手の平を向ける。は真っ青になりながら、手榴弾のピンを抜こうとするが、横から急に何かが飛び出した事により、動きは止まる。
 それは、ヒソカの顔面に直撃した。

「ゴン!?」

 振り返ると、や、クラピカよりは確実に幼いであろう少年の姿が見える。そういえば先ほどこちらに叫んでいた少年の名前が『ゴン』だった気がしたと、は思い出した。

「やるねボウヤ、それ釣竿かい?面白い武器だね ちょっと見せてよ」

 眉の端を、恐らく釣竿のルアーで傷付けたのか痛々しく血が滲む。だけどそれをヒソカが構うはずがなく、ゴンの元へ歩いていく。まだ攻撃するかと思いきや、少年は突っ立ったまま、呆然としている。

「テメェの相手は俺だ!!」

 レオリオはそう言いながら、ヒソカに再び木の棒を振り上げる、が、逆に殴られ宙返った。その様子を見て、ようやくゴンはヒソカの元へと走り出した。それには、つられる様にゴンを追いかけるようにヒソカへ走る。

「仲間を助けにきたのかい?いい子だねー」

 思っているのかいないのか、無表情でヒソカは言った。ゴンの、首を押さえながら。そこに、はポケットナイフを投げると、ヒソカは素早くゴンから避ける。その時また、ヒソカはを見た。そして、不可解な笑顔をする。

「さすがは、あの人のお気に入りだ」
「……え?」

 はきょとん、と目を瞬かせたけれど、ヒソカはゴンの方へと向き直した。

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