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 後悔は先に立たずとは言うが、それは『空が青い』と同じくらい当然のことだ。ひっくり返らない事実である。何が言いたいかと言えば、そんな分かりきっている至極当たり前のことを主張されても、状況によっては腹が立つという話。誰に指摘されなくても、この言葉を思い出しては自己嫌悪。後に悔やんでも仕方がないと、諦める言葉ではあるのだが、やはりそこで思うのは「ここでああすればよかった」と、堂々巡り。

 いっその事もう考える事さえ放棄すれば楽になるのだろうか。選択するというものは難しいもので、一つを決めて前に進み続けるのも、思い悩み進んでは戻るのも、それぞれ酷だ。

「――――」
「―――――?」
「――――――」

 満場一致の正解なんて、紙の上にしかない。見えないものからの攻撃は刃のようで、必要に襲ってくる。その牙のせいで上手く進めなくなっている。だが、落ち着いてよく見るべきだろう。その刀身の、その弾丸の先は、本当に見えないのだろうか。そっと、自分の右手にも同じものが――

「――!」
「―――、――――」

 ――バタン!

 それは大きな音だった。不明瞭な夢を見ていたは飛び起きる。まるでよく慣れた手つきで自身の身体の上に乗っていた布団を剥ぎ取る。ああ、寝ていたのか。
 大きな音、そうだ、これはドアの音だ。一体何の、いや、どこの?こうした音を聞く時といえば、発注ミスがあった時。終わったと自室に戻り、眠っていた時に叩き起こされるこの音が鳴る。はそっと嫌な汗をかいた。だがまだ夢見心地を引きずっているのか、どうにもこの空気に慣れない。

 だがしかし、何をだ。この前終わらせたあの―――、と、考えた所で、フと人影が現れた。

「目が醒めたのですね。……十中八九、今のゴン君のドアの音のせいでしょうけれども」
「あ、ええと………はい」

 そこに居たのはハンター試験、試験官のサトツだった。スラっとしたスタイルの良いスーツ姿の男性は印象が深く、すぐに思い出せた。は焦点の合わない目を何度も瞬かせた。

「すみません。本来なら私ではなく女性の試験官が立ち会うべきだったでしょうが、少々人出不足でして」
「………はあ」
「覚えておりませんか?敷地の外で倒れていたんですよ?」
「…………誰がですか?」
「あなたですよ。さん」

 どうやらまだ頭が完全に回っていないようで、首を傾げた。食い違いを感じるが、自分が正しいと主張出来る根拠もないので、ただ特に口出しもせず、「はあ」とまた曖昧に頷いた。
 寝ぼけていたせいで、先ほどまで家にいる状態だと思っていたが、思い返して見ればここはハンター試験会場だ。まず帰った記憶がないのだから当然か。しかしもちろんその記憶は兎も角、自分がここで寝腐っていた覚えもない。実は、後半は全部夢の中の出来事で、そういった何か(これはの想像では言葉に表せない)を試すようなテストをしていたのだろうか。

「混乱されているようですが」

 ハンター試験って凄い、とが思っていると、それを遮るようにサトツは続けた。「キルア君と会ったことは覚えていますか?」

「キルア……?あ、ああ…、元気なかったですよね。確か……」

 敷地の外?

「彼の右手を覚えていますか?」
「右手ですか?…いや、さすがにそこまで見てるわけじゃあ……」
「……枕を見て頂けますか」

 要領を得ない質問に混乱しながらも、はきっと自分の使っていた枕なんだろうと話の脈略から察し、首だけをそっと後ろを向くように傾ける、と、そこには多少の血で汚れていた枕があった。咄嗟に自分の首元を確認したが、目立った傷はなく、ただほんのりとガサガサとした感触があった。そこを削ると赤黒い塊が爪の中に溜まった。自分の血では、ない。

「こ、これは……?」
「貴女は確かにキルア君に会いましたね?」
「は、い、キルア、だった、はずです」

 念を押して確認させられると不安になってくるが、確かにあれはキルアだった。無愛想で、何も返事を返してくれなかったけれど、こんなハンター試験会場で突然のそっくりさんが出るはずもないだろう。
 は嫌な予感を感じた。ざわざわと、頭の先から爪先まで、響いているのは心臓の音。先ほどまで考えていた呑気なことは飛んでいった。

「貴女が試験会場から離れた後の話をしましょう。キルア君はボドロ氏を殺しました」
「殺、……?で、でも、キルアはボドロ、さんと連戦予定は……」
「ええ、トーナメントが進まない限りありません。彼は試合妨害をしたのです」
「……どうして……?」と、は布団を強く握る。その答えはサトツでは決して出せないだろう。サトツの方が聡明な大人ではあるが、一緒にいた時間ならが勝る。キルアは確かに子どもっぽいところはある。しかし、何も考え無しで動くようなタイプじゃない。

「委員会は彼を不合格とみなしました」
「じゃ、じゃあキルアは帰ったんですか?」
「……分かりません。詳しい説明も聞かず、ここから出て行きました。恐らく貴女はその時のキルア君に出会ったのだと思います」
「………あの時のキルアはおかしかったんです。何も答えてくれないし…変で…」
「キルア君は、ギタラクル氏…いえ、イルミ氏との試合後からずっと抜け殻のようでした」
「え……?」

 フと、試合後のキルアを思い出そうとしたが中々上手く思い出せないことに気付いた。は自分のことばかりで全くキルアのことが見えていなかった自分を恥じた。あの時、もうちょっとでもキルアにかけられる言葉があったんじゃないだろうか。そうすれば今より違うことが起きたんじゃないだろうか。

 今となってはもうどうしようもない。キルアはいない。人を殺したくないと叫んだ子どもが、人を、また殺したんだ。

「貴女もいっぱいいっぱいだったのですから仕方ありません」

 サトツからに宛てた言葉は、泣きたくなるほどの言葉だった。虚しくて、悲しくて、どうしようもない励まし。仕方ない、なんてことあるはずがないのに。

「失礼いたします」と、ノックして入ってきたのは試験当初にナンバーを配っていた男性だ。「さんは……目を覚まされてますね、起きられますか?」
「どうかしましたか?」と変わりにサトツが答えた。
「一段落がつきましたので、今一度ライセンスの説明に移りたくて…後で個別で受けますか?」
「……いえ、行きます」



 小さな男性についていくと、机の並んだホールのようなところについた。達が入ったことにより、数名の受験者――いや、もうハンター試験合格者ではある――は振り返った。その中で、レオリオ・クラピカはの姿に安堵をしたような顔を見せたが、ゴンだけは前を向くだけで、視線を向けることはなかった。

「さて、皆さん揃いましたので今度はもう最初から説明いたします」

 彼の説明が始まった。は前までいって、顔見知りの横にでも座ろうと思ったが、わけもわからないゴンの対応に少なからず動揺していたため、近場の席に1人腰を下ろした。



 説明は試験内容に比べると簡素だった。協会の規約は確かに長々としたものだったが、結局のところは当然だよね、というレベルのこと。外を見ると、いつの間にか日が暮れていた。
 説明が終了し、各々帰宅しようと立ち上がっている波の中、も同様に立ち上がり、恐る恐るゴンの元へ歩み寄った。

「ゴ―――」
「ねえ」

 やはり、言葉を遮られた。ここまで怒っているゴンを見るのは、は初めてだったが、見に覚えがないのでただただ気まずかった。

は知ってたんでしょ」

 ゴンはまだを見ない。ただ真っ直ぐを見ている。講習も終わっているので、その先にもう何もないが、もう目も合わせてくれないのだろうか、とは沈む気持ちで彼を見ていた。

「………えっと」
「アイツが!ギタラクルがキルアの兄貴だって!」

 そうだ、とは冷静にその言葉を飲み込んだ。あの時、ゴンは気を失っていて、不在だったんだ。きっと恐らく、先ほどのと同じように掻い摘んだ説明をサトツからされたのだろう。それは決して偏見の混ざった説明では決して無い。サトツは見た通りに、聞いた通りに、『とギタラクルは知人だった』と言ったのだろう。

 叫びと同時に、ようやくの顔を見たゴンは泣きそうだった。どうして、何でと言いたげな悲痛な表情。もしゴンのストッパーが全部ふっとんだのなら、きっとこういっただろう『裏切り者』と。

「知、ってた。知ってたよ」
「それ、なのには……」
「……………………」

 説明しようと口を開くが、どれも言い訳ばかりが浮かんで消える。そうだ、保身のためにただ黙っていたのだ、と彼女は心の中で何度も後悔した。キルアの為というよりは直接の顧客であるイルミのことを考えていた、し、伝えようとした際のキルアの表情を見るとどうしてもそれを壊すような一言が言えなかったのだ。
 まさかこんな事なるなんて思ってなかった、ちゃんと言おうとしていた、いやもっともっと早く言えれば問題なかったんじゃないだろうか、と、全てが全て、今となってはどうしようもない話。

 が謝ろうと口を開いた時――「もっと早く知ってれば何か変わったの?」 ――二人の間を割るように、イルミ=ゾルディックは呟いた。

「お前には関係ないだろ!」と喚くゴンは、言うならば歳相応の少年だった。
「そうかな。俺も関係あるみたいな言い方だったけど。はどう思う?」
「……どう、とも……」

 一体何がしたいのか分からないが、無理やり会話に混ざってきたイルミを邪険に出来るはずもなく、しかし、それに同調するわけにもいかず、は曖昧に会話を濁す。こうやってますますイルミと仲良し(では勿論ないのだが)という雰囲気を出すことが最も嫌な展開になるだろう、とは考えた。
 ゴンから見ればこの光景は異常だろう。今まで顔も合わせていなかった二人がこうして話していること。それも、片方は憎い相手で、片方は友達で。

(いや、友達というのも、もう、元、なのかもしれない。確かにイルミさんの言うとおり話したから何か変わったことはないかもしれないけれど、こうして後ろめたい気持ちでいっぱいになっていることは確かだし、ゴンの怒りも分かる。わたしはもう、)

「そういう微妙な反応、どうにかならないの?君っていつもそうだよね。ぼんやりしてるしさ」
を馬鹿にするなよ!」

 すっかりしょぼくれただったが、その空気をふっとばすほど、またしても大声を上げたのはゴンだった。「お前はの何が分かる!」

「ま、まー!まー!ゴン、落ち着け、もうお前何がしたいか分かんねえぞ」
「……確かに今の彼の失言を撤回してもらいたい気持ちもあるが、一先ずは落ち着け」

 そこでさっとフォローに入るように来てくれたのはレオリオとクラピカだった。いつの間にこんなに近くにいたのだろう。比較的肩を持ってくれているであろう雰囲気の彼等の言葉に、はふわふわとした足元がしっかりとしたものになるように感じた。

「だって……」とゴンは恥ずかしそうにうつむくが、ハッとしたようにの肩を掴んだ。その目はもう、先程までの目とは違う。いつも通りの目だった。「そうだ!キルアの行った場所、は分かる?」
「ごめん、私も最後まで見届けられなくて……」
「ゴン、はキルアに気絶させられたって聞いてないのか?」
「え!?」

 さすがにそれはサトツから聞いていないのか、素っ頓狂な声を上げた。

「そっか…じゃあ誰も分からないんだね……」
「うん……でも多分家に帰ったんじゃないかな……?」
「ンな単純すぎだろ…」

「他に行くところもないからね」と、またしてもイルミが合いの手を入れた。和気あいあいとしたリズムを崩すようなイルミのタイミングに一同がシンとなったが、意を決してゴンがイルミに問うた。「本当に家なの?」

「そうだとしても、行くのはやめた方が良いと思うよ」
「誰がやめるもんか」ゴンはばかにするように舌を出してみせた。「キルアはオレの友達だ!絶対に連れ戻す!」



 支度が全て終わった。後は皆、帰路へ向かうのみとなった時、ゴンがに寄った。気まずそうな表情をするゴンに、はかける言葉が見つからない。そもそも、ゴンが怒っているのであって、を拒絶したのはゴン自身だ。今度は何を言われるんだろうと身構えていると、ゴンは身体を折り、謝罪の体制をした。

「ごめん!オレ、ごちゃごちゃ考えてて…に当たっちゃった」
「……で、でもゴンの主張は正しいよ。わたしは知ってたんだし……」
「言いにくいこととか、言いたくないこととかってあるよね……は仕事もしてるんだし……」

 もしかしたら仕事云々はレオリオに言われたのかもしれない。先ほどとは違って、色々と考えた結果をゴンは報告するように続ける。「だって、悩んでただろうに…ごめん……」

「……わたしも、ごめんね。……黙ってた方がいいって思っていたのは確かだけど、今すっごく後悔してる。もっと何かできたんじゃないかって、本当に思ってるよ」
「………うん………」

 ゴンは、形式上は謝ってくれているだろうがまだどこか納得していない顔をしていた。それもそうだろう。親友が自分が寝ている間にいなくなってしまったのだ。しかも、重要参考人である人物は肝心な事を隠していて、だけど、その相手までも、諸共恨むことが出来るほど、ゴンは器用な人間ではない。

「でもね」はゴンを見た。「さっき、ゴンがイルミさんに言い返してくれたこと…嬉しかった」

「ゴンは優しいから…あの時わたしに対して特に言ってなかったけど、わたしが黙ってなければこの結果を回避出来たとしたら…って思うと、軽蔑されて当然だと思うよ」
「……、オレは……」
「今の結果は最悪だよ」
「――でも、さ!言っちゃったらもっとひどいことなってたかもしれない!」

 ゴンは明るく言った。

「だってギタラクルは暗殺者なんだよ!――あ、キルアもか!――アイツがわざわざ顔を変えてたのにが言っちゃってたら今度はがどうにかなってたかもしれないし!」
「ゴン…」
「……オレさ、別にキルアが受からなかったことに怒ってるわけじゃないんだ。サトツさんから話を聞いて…あと、実際にギタラクルと話して分かったんだ。キルアは望んで人殺しをしてる訳じゃない」
「………私もそれは思った。あのね、キルア、試験中に、ゴンと…、あとわたしとも、友達になって遊びたいって、ハッキリ言ってたんだ」
「うん……そんなの当たり前に出来ることなのに……」
「アハハ……、でも、わたしも友達いないから、気持ちは分かるなあ」

 は独り言のように小さく言う。別に、キルアのように制限されていたわけじゃない。自ら進んで友達を作らなかったんだ。遊んでいる暇なんてない、前に進まなきゃいけない。そうしていると、周りに集まってくるのは自分よりずっと上の大人ばかり。それを不幸と思ったことはなかったが、ふいに窓から見える風景に思いを馳せたことだってあった。

「え?だけど、オレとは友達でしょ?」
「……まだ、友達でいてくれるの…?」
「え?え?!どうして!?」

 当然のことを言うようなゴンをはまじまじと見た。いくら和解したとはいえ、一度入った亀裂はどうしようもない。

「くじら島に来てくれる話もしたのに!あっでもこれはキルアが戻ってきてからだね」
「うん………うん……」
「どうしたの?」
「なんだろう…歳取ると涙もろくなるっていうし……」
「そんな歳じゃないでしょ。……って泣いてるの……?」

 ゴンはきっと、希望だ。と、は思った。前が見えないと嘆いていても君は切り開いてくれるのだろう、と。

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