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 は嘘である。と彼女は考えていた。だって、という名前も貰い物であるし、その後ろにくっついているという名字なんて今でも名乗っていいのか分からない時がある。それを言うと、きっとあの人は悲しむからと、弱音は吐かないつもりであったし、その名に恥じないように生きてきたはずだった。ブランディングイメージを決してマイナスにしないように、客対応もきちんと出来るように。
 嘘が本当になるまできちんと生きようと思っていた。しかし、完璧に出来たと誇れるのはいつになったらなのだろう。もう認めてもらう人もいないし、その人はずっと、最期まで「君らしく生きて欲しい」なんてとんだ呪いをかけていなくなってしまったのだ。

 もちろん、死にたいなんて一度も思ったことはない。カミサマだどうのというつもりはないが、折角生きている命だ。ちゃんと全うしようとは考えているし、もうあの頃とは違うのだ。個としての名前をもらって、家族としての証である名字までももらっている。生きなきゃいけないんだ。
 


「………団長、ヨークシンのリストでいいのあった?」
「………………なんだその顔は」
「いつもの顔!って言いたいんだけどさ、ちょっと気になる記事見ちゃって」

 大したことはなかったのだが、久しぶりにちゃんとした料理をちゃんとした場所で食べたいということで二人は都市部のレストランにきていた。ここのレストランは要人も御用達の店のようで、全ての部屋が完全個室なだけではなく、一つ一つの距離がかなり離れている。一体どんな要人がこんなところを使うのやらと、クロロは内心笑っていたのだが、突拍子のない会話をふってきたシャルナークは浮かないような、気まずいような顔をしていた。

の子の話、知ってる?」
「要領がつかめないな。知っていると言えば知ってるし、知らないことは知らない」
「んじゃ単刀直入に聞く。養子なの?」

 その一言に、クロロの手が止まった。が、それも一瞬で何事もなかったかのように指先にあったワイングラスを取った。「ああ、そう言われてるな」

「ふーん、じゃあやっぱパソコンもいいや」
「そんな事も言ってたか。彼女にまだ頼んでなかったが、やけに冷たい言い方をするな」
「だって、の名の才能はちゃんとした血筋じゃなきゃ駄目でしょ」
「はは、機械マニアは言うことが違うもんだ」

 結局偽物ならそれまでのこと、というようにシャルナークはため息をついた。クロロが言うとおり、シャルナークは機械全般に精通している。だからこその名前を聞いていち早く反応したし、気にかけていた。しかしながら、未だと聞いて浮かぶ代表作というのは先代のもの。確かに、若い女性だということでまだまだこれからを期待されてはいるが、先代は既に彼女の年の頃には既に活躍をしていたのだ。
 とはいえ、ただでさえ七光と言われかけている彼女にとって、事実だとしてもその噂は営業妨害に他ならない。突然どうしたと思っていると、クロロの携帯電話が鳴った。

「あーあ、もうの素晴らしい作品は消えちゃうのかあ」
「うるさいぞ。―――もしもし?」
『……ク……ロ、さ………っ』
「………電波が悪いみたいだ。どうした?」
『あ、の……ん…』

 断片的にも全く聞き取れない声に、クロロは何度も声をかける。

「電話の先、の子?」
「ああ、そうなんだが、全く聞き取れん」
「あーそういえばこの店、ここのWi-Fi入れないと電波通らないよ。てかやっぱ電話来るもんなんだね〜信頼の証ってやつかな」
「……何の話だ?」

 全く聞き取れない携帯電話の口元を抑えながら、シャルナークを見ると、彼は自身のタブレットをいじり始めた。一体何を見せるつもりだと、クロロが少し身を乗り出した時、シャルナークはパッドを掲げる。
 それはニュース記事であった。動画もあり、そこをクロロの目の前でタップし、再生させる。――ああ、そうか、だから突然の話になったのかと、クロロは納得すると同時に、今飲んでいるもの、食べているものの感覚がなくなるようだと感じた。

「ナウ・オン・エアー!ってね」
『――ロロさ、聞いてください!家が!燃えてるんです!』



 先程のパン屋の主人からの電話を受け、暫く呆然としていただったが、次にしたことといえば、とりあえずクロロに電話するということだった。しかし、それも上手くいかず、今はもう電話を切って、電車に揺られていた。行きは気球で来たんだったか、とぼんやり思い出す。あの時とは場所が違うし、さすがにここで気球は調達が出来ない。一刻もはやく帰らねばという気持ちが強いが、そうのんびりは出来ないのが社会人としての弱みだ。

 仕事用の電話は出ても出ても、何度も違うカスタマーから電話が来るし、クレームを立てられた所で次はどうするかの提案が出来ないこの状況をなんとも返すことが出来ず平謝りをしていた。『父親』がなくなってからはわずかながらいた従業員も離れていき、一人で全てをまかなっていたために、こういったクレーム対応も全て自分一人で行わなければならない。家を誰かに預けることが出来ていたら変わったのだろうか。そう思うと吐き気がしてたまらなかった。
 最も、クレームはもう既に納品している先が、今後メンテナンスをどこに頼めばいい、だの、信用問題、だの、これだから女は、だの、理不尽すぎる事をぶつけてきているだけなので、無になってしまっていればもうどうでもいいものだった。もちろん、どんどんとの心は擦り切れていっているが、どうしようもないものはどうしようもない。起きることは起きるのだ。

 何度目かのクレームを切ると、はため息をついた。折角休めるように特別車両を取ったのだが、先程からずっと通話可能な場所に突っ立っている。座ったり立ってみたりで、身体の疲れはそこまでないが、精神の疲労度はきっと、ハンター試験よりずっとひどかった。

 もういっそ、電源を切ってしまおうかと、しゃがんだまま頭を抱えていると、頭上から拍手が聞こえた。

「アッハッハッハ、アー……。っと、ごめんなさい! 何件とかかってきても同じことをただ繰り返すという見事なクレームさばきに思わず関心してしまいました!」

 「下手なことを言うより同じことを言うのは大事ですもんねえ」と続ける彼の言葉が十中八九嫌味であることはも分かっていた。オレンジがかった髪型の男性は、びしっとした焦げ茶のスーツを来てはいるが、軽い言葉からフランクな印象を強く受けた。ツンツンとハネている短い髪の毛はセットしているというより、自然にそうなっているよう。それでも人を不快にさせるイメージがないのは彼の雰囲気が爽やかであるからだろうか。とはいえ、彼の口からでる言葉は悪意しかないようで、気分は悪い。

「はあ……」
「いやー楽しいものを見させて頂きました!――その歳でお仕事をされてるんですか? いやあ、こんな電話ばかりでは大変で仕方ないでしょうね!」

 こういう雰囲気の得意先も確かにいるのだが、それよりも更に食えないような人間だ。どうしてこうも話しかけてくるのかも分からないし、この人と会話するより前に、早く休みたい。
 そんな不満が伝わってしまったのか、彼は笑いながら言う。「女性を前にして、気が回らず申し訳ありません!まずは座席に戻り、座りながらお喋りをしましょうか」

「……座りながら、ですか?」

 が怪訝そうに返した。この列車は全て指定席だ。今は繁盛期ではないようなので、ちらほらと空いている席はみたが、適当に席を移動できるものではない。
 返答に困っていると、彼がの手を引いて、車両へと引っ張っていった。その仕草からは女性をエスコートすることに慣れているのか、強引ではあったが、力強く引っ張られた感覚もなく自然だった。

「貴女はほとんど座っていなかったのでお気づきではなかったかもしれませんが、僕は貴女の隣なんですよ」
「………なるほど」
「こんないい席だというのに荷物だけあってずっとご不在だったので心配していたんですよね」

 席につくまでもずっと喋りっぱなしの彼は疲れないのかと、は素直に疑問に感じた。

「あ、はあ、まあ、忙しくて……」
「忙しいことはいいことです! ――あ、これを」と、彼は歩いていた添乗員に声をかけた。

 すると待つ暇もなく、の前に氷の入ったアイスティーが運ばれてきた。あの一瞬で注文したのかと、は唖然としていたが、彼は何も気にしない顔で話を続ける。「僕の話はいつも長いと言われてしまうんです、すみませんね、本当!そのお詫びと言ってはなんですが、貴女もきっと長電話で喉も乾いたでしょう?紅茶がお嫌いなら、コーヒーにしましょう」

「っ紅茶で大丈夫です」

 次から次へと出てきそうな雰囲気に、は首を降った。
 の席は窓側で、彼の位置は通路側なので、どこか閉じ込められているような感覚さえあった。とはいえ喉が乾いていることは確かにその通りだったので、ストローで喉へ流し込んでみる。――が、美味しいのか不味いのか、果たしてもしかして水なのかと思うほど、何も味を感じなかった。先程の男に飲む姿さえずっと見られていたら感覚だって失うだろう。

「あ、あなたは、何をされてるんですか?」
「僕ですか?」
「……すみません、失礼でしたね。あなたは普段どんな事をされてますか?」

 なりの世間話のつもりだった。急に彼女から質問が来ることに驚いた表情を少しだけ見せるが、すぐに笑顔に戻る。

「僕は、そうですね、組織ではNo.2みたいな立場なので色々と板挟まれてますよ」
「大変ですね」
「いやいや、貴女ほどではありませんよ!クレーム対応は他の者がやってくれているので、僕は名ばかりです」
「……やっぱり人は多い方がいいんですかね」
「雇える財力があるなら人というものは増やした方がいいでしょうね。ただ、多いと取り返しのつかないことになることも多々ですよ」

 ふと手元の携帯電話を思い出したが、先程まで握りしめていたものがないことに気付き、席を立ち上がりそうになる。が、それを彼は手で制した。その反対の手にはの携帯電話が震えている。

「あ、それじゃあ鳴ってるんで……」
「もういいでしょう? 確かにすぐに報告は大事ですが、状況確認後にようやく伝達出来ることはありますからね。その客にもまた同じことを言うつもりですか?」

 確かにそれを今電話をかけてきている全てのカスタマーに叫びたいが、客商売である以上そんな事はいえない。お客様は神様なのである。右といったら右を向くしか無いし、やっぱ左と言われたら左。愚痴は客が見えなくなってから言うものだ。

「――それで、」と彼は仕切る。「人を増やしたいんですか?」
「え? あ、ああ、今ちょっとトラブっているのですが従業員が多ければもしかしたら防げたミスかもしれないなと……」
「そうですか」

 彼は頷く。思わず人生相談のようになってはいるが、何も分からない初対面だからこそ言えることがあるのかもしれない、とは考えた。きっと彼とも一生会わないだろうから、少しくらい愚痴を零しても誰も何も気にしないだろう。

「引き継いで行っているんですけど、わたしじゃ無理だということで皆やめちゃったんですよね。それに、引き継ぐ前の人も、もうこんなのしなくていいって」
「でも、残されて頑張られてるんですよね」
「頑張ってる、といえるほどじゃないですよ。色んな呪縛のせいです」
「呪縛……あまりいい響きではないですね。訳を聞いても?」
「語れるほどはありません。わたしがわたしである以上、そうしないと……駄目だなって」

 を名乗るためにはこう生きなければならない。を本当にするためにはこの生き方しかない。
 誰に言われた言葉でもなく、自分で決めたことではあるが、たまにそれから抜け出したいとふいに思うことが無いわけではない。しかし、そこから抜け出したら自分は何になるんだろう。

「過程は誰も見てません」

 彼は言った。

「貴女がどう在ろうとしても、結果がなければ、やんややんやと突っかかられるでしょうね」
「そう、ですね、……そうですよ」
「それでも前に進んでいく姿勢は素晴らしいですね! 僕だったら心が折れてしまうかもしれない」
「……あはは……」
「褒めてるんですよ? "きっと"貴女が"もし"成功したとして、その時はこの苦労も笑い話に出来るでしょうね!」

 励ます気がないとしか考えられない彼の言葉に、は苦笑を零した。
 先程まで自分本位に話をしようとしていたが、彼の反応から返信することにもどんどん疲れてきたは仕方なしにアイスティーを飲み進めていると、有限であるから仕方ないとは思うが、最後にズズッと音を立てて液体は消えた。そのせいで、この目の前の男は変に気を回し、2杯目の飲み物を持ってこさせた。

「ランクを落としてこの列車に乗ってよかったです! 本当は専用車を使おうと思っていたんですけどね、貴女みたいな面白い人に本当に出会えてよかった! ありがとうございます!」

 言っていることがコロコロ変わる男の話は続くのだが、ようやくは疑問に感じた。この車両はそれなりに空きがある。中には通路側・窓側どちらも空いている列もあるというのに、どうしてこの男は隣にいるのだろう。
 黙っての席の移動はおそらく出来ない。それでいて、何度も添乗員を呼んでいるのでこの席の使用権はあるようだ。しかし、そこから導き出される答えが分からない。

「ところで、貴女は先程の駅で何をされていたんですか?」
「……ハンター試験を受けてました」
「おお、結果はいかがでしたか?あの駅ということは……?」
「………受かってます」
「おめでとうございます!」

 出会った時と同様に、彼は拍手をする。

「いいですね、素晴らしいです。ルーキーでしたか?」
「……ええ、まあ」
「貴女のこれからを期待しておりますよ」
「期待されるほどでは……」
「おっと、名乗り遅れておりましたね」

 目の前の彼はに右手を差し出した。おそらく握手ということは想定出来るが、なぜこのタイミングなのだろう、と、彼女も恐る恐る手を差し伸べる。

「ハンター協会副会長、パリストンです! さんのこれからのご活躍、期待しておりますよ」

 驚きのあまり、思わず手を引っ込めかけるが、それ以上に彼・パリストンはグッと手を握った。

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