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 ごめんなさい許して下さい。はなりふり構わずそう叫んでいた。人生で一番、大きく口を開けていただろう。それもそのはずだ。遠くで聞こえていた悲鳴が、近づいてきたと思ったら目の前がホワイトアウトするレベルの煙。その煙を吸う暇もなく、次の瞬間には冷たい外気に触れたと思ったら真っ逆さまに落下していたのだ。

「金でも払ってくれるの? 対して無いくせに」

 世間一般の平均年収よりは高いつもりではあるが、絵に描いたような大金持ちに言われると何も言えなくなってしまう。

 目に入った煙のせいで目から涙が出る。痛みでろくにあけることはできないが、確かな重力としっかりとした悪口はよく感じた。その言葉は先日の車での件を引きずっているのだろう。

 感触から、おそらくイルミはを横抱きしているように思える。突如、しびれるような鈍い痛みが来ると地上に降りられたというのを理解した。イルミがこのように運んでくれるのは意外だったが、ハンター試験のように担がれていたら胃に深刻なダメージを負ったかもしれない。

「な、何も見えないんですけど、何がどうなってます?」
「来月くらいにはキレイな更地になってるだろうね」
「……ホテルの行く末ではなくて……」

 このままでは埒が明かない、とはなんとか目を開けようとするが、視界が潤んでいるせいで、ぼやけた夜景しか見えない。
 自分では歩けないということを察しられたのか、イルミはそのままどこかへ歩いて行った。先程行っていたホテルへ移動するのだろう。近くではまだ悲鳴が聞こえたが、音からはどんどんと遠ざかっていく。

「……って何系なの? このくらい自分で何とかしてよ」
「えっ? 何……なんですか?」

 聞き取れなかった訳ではない。こんなにも近い、よく聞いた知人の言葉はさすがに逃してはいないはずなのだが、今の文脈に合わないように思えて純粋に聞き返した。

「それ、本気で言ってる?」

 イルミと話すときに冗談なんて言ったらどうなるか分からないから常に緊張しているつもりなのに。身を持って感じられるピリついたイルミの雰囲気は弱った体にかなり苦しかった。

 恐る恐る見上げてみるが、イルミは真っすぐ先の進路方向を向いていてこちらには目を向けていない。それなのにこの空気は何なんだろう。

「……本気で話してるつもりです……」
「ふーん」
「……えっと」
「まあいいや」

 少々、つまらなさそうな声色だった。返事に失敗したかと思ったけれど、先程のような雰囲気はなくなったのでは一息ついた。

 イルミのことを理解したつもりなんてなかった。ここ最近は話す機会があったから物理的には近づいてはいたが、底なんて見えない。彼のことを少し知るたびに暗い暗い井戸の底を眺めている気持ちになる。石を落としたって何も聞こえない、深い闇だ。たまに光って見えるのは降り注いだ雨の雫で、それ以外は何もない。

 暗闇で、入る情報は耳からしかない。ザクザク、と雪を踏む規則的な音。コートはホテルの部屋に置いていたから、ひどく冷える。

 客だとしても適度な距離を置いていたいのに、どうして父親はこの人たちに頼んでしまったんだろう。は泣いて腫れた目を冷えた指先で覆った。

「俺に運ばせて置いて自分は寝るつもりなら速攻落とすけど」
「そんなつもりはありませんよ!?」

 今絶対に宙に浮いた! との心臓は早くなった。近くでは車の音もするし、イルミなら絶対に車道で落とすだろう。

 と、そのとき、目の痛みがなくなり、自然と開くようになった。何度か瞬きをしてみるが、気の所為ではないようだ。そんなの様子を見たイルミは、雑に彼女を下ろす。

「っここまでありがとうございました。目はもう大丈夫です」
「そういうものだったんだね」
「……『そういう』?」
「そういう意味だよ」

 根に持つタイプだったのか。月明かりで少しだけ、深い井戸の輪郭だけ見えた気がした。




 イルミが案内したのは、想像よりもこぢんまりしたホテルだった。
 入り口でイルミと別れ、受付で渡されたルームキーから客室を探す。奥まったところにあったその部屋のドアを開けると、入り口に自身のキャリーケースがポツンと佇んでいた。

 そのまま受け止めようとして、ハッとする。それはあのホテルに置き去りにしたつもりだ。しかも部屋についたときにある程度広げてしまったはずなのに、ファスナーは閉まっている。

 深呼吸をしたはそれには深く触れることなく、ベッドに沈んだ。

 寒くて芯から冷え込んでいたが、シャワーを浴びるためには変えの下着を用意したい。おそらく、ここまでキチンと運ばれているからにはキャリーケースの中にしっかりと入れられているとは思うのだが、部屋で散らかしたはずの荷物がパッキングされている事実を受け入れる体力は残ってないのだ。

 冷え込む足先が温度のないシーツに絡む。部屋の暖房を入れようと思った頃にはすでに眠りについていた。



「ハイ、これ、とりあえず見ておいて」

 翌朝、シャワーを浴びて着替えた瞬間だった。がベルトを締めたとき、もういいだろうと言わんばかりのタイミングでイルミは堂々と部屋に入ってきた。しかもドアは開けっ放しというのも彼らしい。

「まさか」「もしかして」「え?」――というのは、の脳裏に浮かんだ言葉であり、音にはならなかったが、ひとまず、ゆっくりとドアを閉めた。鍵は確かにかけていたはずだが、彼に常識など通用しない。

「昨日渡そうと思って忘れてたんだ」

 シンプルな宿泊施設だからこそ、備え付けの設備は必要最低限しか揃っておらず、そんな中、一つしかない椅子に堂々とイルミは座る。そして、机の上にあったクリアファイル類をホコリのように吹き飛ばすように手で払うと、自分が持ってきた書類をそこにおいたのだ。

 そのクリアファイルはの私物ではなく、ただ施設の案内やルームサービスの説明が書いているだけなのだが、折れたなんだでクレームをつけられても困るので、イルミの書類を見るより先にクリアファイルを拾い上げて安全な位置に動かした。
 彼の持ち込んだ書類を見る。そこには見覚えのある文字が羅列していた。

「……これ、うちの顧客リストですよね」
「あと、適当にライバル企業もピックアップしてる。俺は俺で調べてるけど、から見て気になってるところがあったら教えて」

 (とくに彼は気にしないだろうが)さすがにイルミを見下ろしながら話すことに気が引けたは、しわだらけのベッドに腰を掛けた。

 履歴書のように、経歴がかいてある紙を眺める。顧客の個人情報までは知らないと思っていたのだが、こうして文字として改めてみていると、意外と知っていることが多かった。何気ない会話で仕入れている情報が多いのだろう。職歴はともかく、家族構成、資格……。

「よく預金残高や隠し子の数まで分かりますね」
「調べろって言ったからね」

 誰に、と聞いてもイルミは答えてくれないのだろう。

「……よく分かりました。一応目を通しますけど、あんまり私の意見は参考にならないような……」
「いや、今見てよ」

 キッパリと、イルミは言う。

 彼の顔と書類を交互に見るが、「なんで今じゃないの?」ともう一声かかる。

「こ、これ、2cmくらいあるじゃないですか…。いまパラパラ見ても…」
「折角の資料、適当に見たら怒るよ。まあ俺、あと10分くらいしたらここ出たいんだけど、それまでに見終わってね」

 『怒る』ってどのくらい怒られるんだろう。は呆けてしまったが、それよりも一刻も早くこの書類に目を通すことが大事だ。まず最初のページに戻って、再度読み直した。

 書類自体はとてもきれいにまとまっていた。このフォーマットでリストが転がっているわけではないのだから、きっと1からイルミに作れと言われたのだろう。その人のことを思うと胸が痛くなる一方だが、明日は、いや、今は我が身だ。

はさ、朝食べたの?」
「………まだです」
「ああそう、じゃあ後で食べようよ」
「え!? で、では書類見るのは残り何分になります?」
「10分だけど? ああ、もう8分切ってるか。食事はその後。1時間くらい時間ある?」
「……あります、けど」

 単体のために待てる時間は10分ではあるが、その後の食事は1時間たっぷり取ってくれるらしい。普通、時間配分は逆だろう。到底言えるわけがないが、紙を握る手に思わず力が入る。

「これ、ご飯のところに持ってて……」
「いいと思うならすれば? が後から言われるだけだよ。『個人情報をカフェで広げる経営者』だって」



 運ばれてきたフレンチトーストにナイフを入れたところ、少々皿にあたってしまいキィと少し嫌な音を鳴らした。昨晩のようにイルミと共に食事をするのは過去に数回あったが、彼は音もなく食べるので、自身のマナーの悪さが目立つようだ。

「す、すみません……」
「何? 殺されたいの?」

 その話はまだ有効だったのか、とは肩を揺らした。「音立てちゃったんで、わたし」

「ああ、耳障りだなとは思ったけど、気にしなくていいよ」

 今すぐマナースクールに行くべきなのかもしれない。ここまで意味のない『気にしなくていいよ』は初めてだった。

 店の一番奥に案内してもらえたことで、ここは物静かだった。少しだけ店内で流しているテレビの音が聞こえる程度。今の時間は入り口付近でドリンクバーを置いているらしく、チラホラと入り口近くの席は埋まってきたようだが、トイレも逆方向にあるこの場所の周りには誰も通らない。

 先程の書類は一応読み切った。もちろん、いくらなんでもあの量を熟読するなんて不可能に近かったし、コピーも駄目と言われてしまったため――の保有するクラウドはハッキングされるのでNG、USBメモリのような物理は尚更NGのようだ――無理やり詰め込んだとしか言えない。

 それでも、やはり、

「わたしは、お客さんは関係ないと思うんですよね」

 思わず呟いてしまった。ハッと、イルミをみると、こちらを見ているだけではあるが、目が続きを訴えているように思えた。

「根拠があるわけじゃないんですけど、今日見せてもらった他社もなんか違うかなって……。顧客含めて全員、会ったことある方々なんですけど、わたしを消してまで恨んでいる人はいなさそうで」
「心からそう思っているなら幸せな人生だね」
「確固たる理由は浮かんでこないので、そう言われるのも仕方ないですよね……」
「まあ俺は――確かに客じゃないと思う」

 決して励ましては言っていないイルミの言葉ではあったが、昨日今日で一番嬉しい言葉であった。

「そっ、それはどうして?」
「だっての家だけならまだしも、あんな大きなホテルの火災起こせる技術を持ってるなら客としてに頼まなくても何かできそうでしょ」

 まだしもて。

「今のわたしみたいに、他の誰かに依頼したかもしれないのに……」
「客の肩持ちたいんじゃないの?」と言うイルミはどこか呆れていた。「ほぼほぼ単独犯で決定だよ。もし裏にまだ繋がってたとしても、それは最初だけの愉快犯だろうし、にはもう飽きてるでしょ」
「え?」
「何事もきっかけはつまらないものだよ。今日すれ違った人を殺すとか、目のあった人を理由もなく監禁したとか、それと同じ」

 にはうまくは飲み込めなかったが、可能性としてあるのは理不尽なものということなのだろうか。それはとてもやるせない気がしたが、確かめる術なんてないだろう。まだここで結論がついた訳ではないのだが、どこか脱力した気分になった。

「だから身近な同業者しかありえない」
「他社さんも別に、」

 少々噛み付くような言い方だったかもしれない。と、言葉を発したあとに気づいた。しかし、動きを止めたのはだけではなかった。どこかを見るイルミにつられて、その目線を追うと、店にあるTVモニターにたどり着いた。遠くからなのでよくは見えないが、小さな音とテロップを見るからに、速報のニュースが流れているようだ。どこか見覚えのある文字に思わず立ち上がる。

『今、いま、護送されています――』
『昨晩、ターミナル駅のホテルを襲った火災』
『その犯人が――』

 フラッシュに囲まれたその顔が見えた、刹那、心臓が誰かに掴まれたかのような感覚に襲われた。

 見に覚えのない不合理な出来事だったならどんなに楽だったのか。
 よくもまあ、誰からも恨まれてないなんて思えていたものだ。自身の潔白なんてありえないというのに。生きている限り、ずっと続いていくというのに。

 目を見開き、固まるを見、イルミは意外そうに投げかける。

「寝耳に水とでも?」
「……はい……」

 は気力もなく頷いた。

「最低な話ですよ、ありえない、なに馬鹿なことを言ってたんだろう」

 思いつく限りの暴言を自分に吐きたくなった。突然のことで感情がぐちゃぐちゃになってはいたが、ここで涙が出ないことに心底安心する。犯人は自分だったようなものだ。被害者ぶれるはずがない。

「まあ、目立つし座れば。結果がこうだっただけでそんなに深刻に考える話でもないでしょ。よくある話だと思うし、元従業員の犯行って」

 あっけらかんというイルミの言葉が右から左へと抜ける。よくあるからって許される話ではない。

 脳裏に浮かぶのは先日の列車での自身の言葉。よくも、よくも簡単に言えたものだ。

――わたしじゃ無理だということで皆やめちゃったんですよね――

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