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 店のテレビを見ていない人はいない。大げさかもしれないが、理由としてはここはあのホテルから比較的近くにある場所だったからだろう。容疑者逮捕のニュースを見て、店員を含め、みんな一様にホッとした表情を浮かべていた。

「………イルミさん、なんですか」
「何が?……ああ、俺が捕まえたって? そんな訳ないでしょ。俺は警察でもなければもちろん、探偵でもない」

 は静かに座った。勢いよく椅子を引いて立ち上がったせいで、テーブルからやや距離があるが、直す様子はないようで、膝の上で指先を遊ばせた。

「こういう時、規則って面倒だよね。彼はきっと、の家の放火犯でもあるけれど、調査に調査を重ねて、ようやくゴーサインが出るんだから」

 だけど、とイルミは続ける。「それでも捕まっちゃったからには言うだろうね。これほどの……、の評判を落とす策はないだろうし」

 危険な思考の元従業員であること、ここまで騒がせたこと。彼がどんな主張をするか分からないし、それらがすべて報道されるわけはないが、静かな水面に石を投げれば当然波は打つ。元々、1人でこうして事業をしていることを良くないと、実行まで移らなくても考えている人は多いのだ。それは常々理解はしているつもりだった。

「………本当、ですね」

 誰が何を言ってもいい。この仕事を続けられれば。なんて、耳を塞いだところで何も解決はしない。ここまで評判を落としたのは、親の顔に泥を塗ることになったのは、他でもない自分であり、たった1つの貰い物であるの名前すら、守れないのだ。

 鼻の奥がツンとした感覚があって、思わず口元を覆う。

「なんだっけ、それ。えーと、嬉し泣き?」
「違、います………くや、悔しくて……」
「悔しい?」

 食事を終えたイルミは頬杖を付いた。「悔しいと思えるほど、目の前にあった問題なの? 例えば、今から過去に戻れば解決できるの?」

「悔しい、ってそういう感情だと俺は思ってるけど」

 イルミの言葉には息を飲む。思わず、両目から涙も溢れた。悔しいという言葉すらおこがましい立場にいるのだというシビアな一言に、ただただ絶望という感情が浮かんだのだ。
 言い返したい言葉はいくらでも、醜く叫び散らしたいほどあったが、あのニュースをこうして座って眺めるしかできない自分の無力さを深く実感した。

 泣き出したを見、イルミは面倒そうにため息を吐く。そしてふと考えるような素振りをした後に、まっすぐとを見た。

にそんな感情はいらないよ。前に言ったよね。は優秀なクリエイターだ。俺はそんなを大事にすべきだと思ってる」
「……っそ、それこそ、もったいない話、です」

 一度流れた涙はいつだってすぐには止められない。肩を震わせて、しゃっくり上げて、はただ首を振った。

「…………それもなあ。厄介なんだよね」

 イルミは立ち上がった。呆然と眺めていると、の真横に立ち、そして目線が合うようにしゃがむ。の席は入り口に背を向けているため、視界には彼しか映らなくなった。

「どうでもいいことに悩む必要はないんじゃない? その方が楽だと思うよ。絶対にね」
「………イル、ミさん?」
「俺ならそんな無駄なことを考えさせなくできるよ」

 目の前にいるはずなのに、彼の目は何も映さないように真っ黒だ。反射も何もない。ずっと見ていると、おかしくなってしまいそうだ。決してこの状況は、きっと、いや、絶対に自分にとって良くないと思っていながらも逃げ出すことができない。足がすくんでいるのだ。

 頷いて、しまいそうだ。

「む、だ……」
「うん、絶対にいらない。反省点の反復ならまだしも、後悔をしても仕方ないよ」
「…………それ、は」

 純粋な恐怖を抱いているのだろう。先程まであったような知り合いとしての奇妙な会食の雰囲気などない。これは蛇に睨まれた蛙のよう。明確な上下関係を見せられている気持ちだ。

 今までこのような感情をイルミから向けられたことがなかったために、は頭が真っ白になっていた。このままだと、と脳みそは危険信号を鳴らすが、何もできない。

 ……『何もできない』?

「っそん、なの、わたしじゃ、ないと思います」

 また何もできないままだと考えた瞬間、はひねり出すように声を上げた。悲鳴のような声だった。

「わた、しはずっと、後悔して、生きてます。……無駄でも、面倒でも、どうだって良くたって……!」

 確かに、そんな感情がなければ楽にはなるはずだ。しかし、楽というのは決して良いことばかりではない、とは思った。
 失敗したとしても次にいくため、噛み砕くために後悔をする。器用な人間ではないのですぐに反省することができなかったとしても、それは決して自分にとって無駄なことではない。

「こうして、生きているわたしを、恥じたつもりはありません」

 そして、息を吐くと、ふいに誰かの手が肩に乗る。暖かな手だ。イルミの手ではない。
 ゆっくりと顔をあげるとそこには数日ぶりのクロロがいた。彼はと目が合うとニッコリと笑い、イルミがいる逆方向から、テーブルに手を付き、を覗き込んだ。

「偶然だな、。俺もここでブランチをしようと思ってな」
「……ふーん、ま、気が変わったら言ってよ」
「さて、席、開けてもらっていいか? お前はもう済んだんだろ?」

 顔色の変わらないイルミは声をかけられたことでようやくクロロを見ると、「はいはい」と自分の荷物をまとめた。

「とりあえず、多分もうあいつは何もしないだろうし、俺はここまでってことで」
「………あ、えっと、はい、ありがとうございました」

 先程までの空気はどこへ行ったのか。にとっていつも通りのイルミはレシートを持って会計した後に、店を出た。
 その間、次の同席相手となりそうなクロロは近くにいる店員まで彼の食器類を返してから、ようやく席につく。

「あっ、わたしの会計……」
「ん? まあいいだろ。迷惑料としては安いしな」
「迷惑料………」

 そういえば泊まったホテル代も出してないので、出されっぱなしではあるのだが、イルミがそこのところを気にしていれば後日請求は来るだろう。あんなやり取りの後だったが、そんなシュールなものが届いてしまったらと笑ってしまうかもしれない、とは思った。

「ここまでってことは終わったのか?」

 注文が終わったクロロはメニューを閉じながら、に言う。

「あ、えっと、事件のことですよね。はい、わたしは特に何もしてないですけど、別件で逮捕されたみたいなので、おそらく」
「はは、間抜けな犯人だな」
「……そ、ですね、わたしもそう思います」
「――やりたいことは見つかったか?」

 やわらかく、やさしく。まるで子供の頭を撫でるような声色だ。はこの声が大好きだった。まだ先の話などしていなかったはずなのに、のことを見透かしたようなクロロの言葉にぽかんとしていると、彼はまた微笑む。

「どうしよう、って顔してなかったから解決したと思った」

 テーブルにクロロの頼んだ料理が配膳された。エッグベネディクトから胡椒の良い香りが届く。同時に届いたティラミスをの方へ寄越しながら、ナイフとフォークを取った。

「わた、わたし、やっぱり……あの家は立て直そうと思ってて!」

 勢い余ったせいか、思わず声が大きくなってしまった。ハッとして口を抑える。そろそろ、店も混雑する時間のためか、近くを通った人がちらとを見たのを感じ、彼女は少々顔を赤める。クロロは「それで?」と笑みを含めた声で相槌を打つ。

「……ゆっくり、ゆっくり行おうと思うんです。全部。わたしも色々と整理したいことがあるというか……」
「ふんふん」
「それから、これからの仕事は修理をメインに行いたいなって」

 心臓が高鳴る。クロロから仕事を依頼されたことはないし、きっと今後ともそう。ただの隣人だ。だけど、不思議と誰よりも傍にいた人だった。だからこそ、彼の返事はなんとなく予想ができた。

「いいんじゃないか。が決めたことだ」

 分かってはいたとしても、これほど嬉しいことはないだろう。

「は、い………。あっティラミス、ありがとうございます」
「ここのティラミスが美味いらしいんだ。美味かったら教えてくれよ、俺の分も頼む」
「……えっ!? 実験!?」

 そうしてようやく笑うことができた。声をあげて笑うと、どうしてか不安も悩みもすべて吹き飛ぶような気がした。

「何にせよ。もう危ないことがないようで良かったよ」
「……ううん、どうでしょう」
「心配ごとか?」
「………容疑者、うちの元従業員なんです。だからまだちょっと余波がありそうだなーなんて……」

 というのは、ややイルミからの受け売りではある。ただし、彼の指摘に納得したところもあったので思わずそう口にしていた。まだ終わりではないと思うと、心は重くなるが、できることをするしかない。

「…………そうかな」

 きっとこの言葉も、クロロは一緒に考えてくれると思っていた。しかし、クロロは平然とした顔での言葉を切る。

「もう俺は大丈夫だと思うよ。元従業員って言ってもさ、もうは関係ないだろう? お前が指示を出した訳じゃないんだし」
「え? ま、まあそうですけど、……そう、ですかね」

 彼の言葉を聞いてしまうと、無条件で同意してしまいそうになる。が、さすがにこの話はうまく飲み込めない。頭にハテナを浮かべながらも、彼を見た。その顔はふざけているようでもないし、当然と言った顔で、ますますは分からなくなった。

「考えるなってことじゃない。でも、まるでこれから死刑だっていう顔はもうしなくていいんじゃないのかって話だよ」
「そんな顔してました?!」
「めっちゃしてた。は次にしたいこと考えられたんだから、それを邪魔するものなんてないさ」

 彼は、笑う。




 クロロが言っていた言葉は確かに、その通りだったかもしれない。

 いつか、いつの日にか、またぞろぞろと警察がきて犯人の話をされるのだろう、そう思っていたのだがそんな日は何日待っても来なかった。イルミが言っていた通り、面倒な調査がかかっているのだろうか。しかし、ある意味そうやって楽観的に考えていたってあまりに時間がかかりすぎてはいないか。
 最近来た警察からの連絡も、とくに進捗がないようなことを言っていた。

 それでも、と、はニュースを付けるが、当事者であるに何も来ていないのだから、分かることなどないだろう。日々様々な事件や事故が目白押しで、あんな事件は誰も興味をなくしたのかもしれなくても、何かないかと眼を見張るが新しい情報は何一つなかった。

 ぼんやりとニュースアプリを起動した。せめてあのホテルの続報でもないかと検索していると、数日前のニュースが目につく。

 あの容疑者は、既に自殺していた。

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