散らない花は美しいか

01

 決して、何があろうとも、この重みもあなたも絶対に忘れません。



 ザアザア、と波の音が甲板に心地よく響く。どうやら今日は海が荒れる事もなく滞りなくこの船は進んでいくようだ。燦々と照らし続けている太陽は、もうとっくに天辺に昇っていると言うのにあまり暑くは感じないいい天候だった。
 波の他には賑やかで楽しそうな人々の話し声が届く。この船が出発をした頃は、皆まだ眠そうにしていたが、未だ未開の地とされている場所へ間もなく到着するという高揚感からか、普段より口数の多い者もいるだろう。

 しかしどのグループも明るく盛り上がっている訳でもなく、ましてや一人でずっと居るという者もいる。

 彼女も、その一人だった。
 甲板の手すりに強く預けているその手は白く、ピンクベージュの影が出来ている。ふわふわ揺れるココア色の長い髪はシルクのように一本一本が輝いて、だけどそれを彼女は煩わそうに風に吹かれる度に手で抑えた。恐らく甲鈑で盛り上がっている人々よりは先にその場所に居ると言うのに、姿勢は一ミリたりとも崩れない。ピンとした背筋はまるで、謁見しているようにも見えた。しかし、目からは自身を卑下するような印象は受けず、それでいて嫌味に感じさせない瞳が真っ直ぐ前を見据えていた。

「……」

 どうして彼女がこうして船に乗り、あの場所へ向かうのかを正確に説明することは誰にも出来ないだろう。実際に周りの者には何度も止められたが、彼女の意思は固かった。まず、「なぜ?」という質問に彼女自身が答えられずに、「行かねば」と返すから折れるしかなかったのだ。このままではこっそり抜けだしてでも向かってやると言わんばかりだったので、時制を付けて許された。
 彼女は、は遺跡船に向かわなければいけない、という気がした。変わらねばならない。そう思っていた。

 今まで欲しいものならなんだって、座っているだけで手に入れられた。この世で一番高価な宝石だって欲しいと言えば首から下げられただろうし、危険度がSのモンスターだってペットにしたいと言えば可能だった。だけどコレだけは、どうしても自分で歩いて、理由を探したかったのだ。

 好奇心だったかもしれない。他の人らの暮らしを見てみたかったのかもしれない。いつもが手を伸ばせばパンがあって、いつだって足を伸ばせるベッドがあった。だけど考えてみれば、手を伸ばした時にパンを捧げるその女性に、何か自分は与えたものなどあったのだろうか?絢爛豪華なベッドがどう出来ているのも知らないのに!
 自分がとくに動かず何も出来るのも、の代わりに歩いてくれている人がいるからで、考えてみれば何故、自分だけではロクに何もしないでここまで育ったのだろう。調理場に立った事など全くないし、むしろ足を踏み入れた事すら指折りだ。魚の切り身が泳いでいるだけではなく、料理皿に乗って空を飛んでいると考えていてもおかしくはない。
 それを当たり前だと思っていた自分自身がどこか恐ろしく、だけど、それを使用人に聞いたとしても、当然だと言うような顔をして、問いただそうとする彼女へ困ったような顔を向けるのだ。

「———あの……お、客様……?」
「………?」

 ふいに声をかけられ、振り返ると、そこには営業スマイルを引き攣らせた船員がごもごもと言いずらそうに言った。普段、接客に慣れているとは言いがたい対応だ。「目的地に到着しましたので、お忘れ物ないようお願い致します」

「あら……、申し訳御座いません。今降りますわ」
「お部屋などにお忘れ物はないでしょうか?」
「いえ、この手荷物のみで御座います」

 は手元のバッグを持ち上げた。その量からはどうも、旅行に来ているようには見えなかったが、船員は顔色を崩さないまま——とは言えもう既に青ざめているが——、を船の下まで送る。
 どうやら、今までずっと船に残っていたのはだけだったようで、見回すともう、清掃をしている人たちが見えた。だけどソレをまじまじと見るわけでもなく、彼女は真正面を見つめ直した。ピンと伸ばした背筋はまるで、そうまるで謁見に向かう女王陛下。あの様に、誰かが掃除している姿を見るのはいつもの事だ。それが恐ろしくいつもの事。

 そして最後に案内した船員に会釈をすると、彼はまたごもごもと、迷うように困ったように声を出した。

お嬢様、見逃すのは今回だけですよ」
「……ありがとう、感謝し尽くせないわ」
「本当に、本っ当ーに怪我の無い様にお願いします!」
「もう、そういう口出しは止めて頂戴。……大丈夫、すぐ戻る、から」

 ふ、と微笑んでみると、いつの間にか清掃をしていた人たちは皆手を止めて、こちらを見ている事に気付いた。各々の表情はバラバラだが、皆、背筋を伸ばし、軽く身だしなみを整えていた。それにはさすがにも柳眉を下げてソレを見、少し困った顔をする。

「こんな所、誰かに見られたら……」
「……俺たち全員、心配しているのですよ?」
「平気、よ」
「……どうしても、行くのですね?」

 自分の国から出ている船を取ったのが問題だったのか。出来れば思いとどまってくれという視線からは目を逸らした。どうにもこの船員は心配性のようで、にじみ出る彼らの優しさが今は痛くて仕方なかった。だが決めたことなのだ。
 ここにはもし何かあった時に周りに頼れる者なんていやしない。そう考えると、足が竦みそうな気がする。途方のない旅が始まろうとしている。それでも、彼女の足は船へとは戻らなかった。

「行って来ます……、ね?」

 一度息を吸って、吐いて。まるで子供を嗜めるように出した単語を丁寧に紡いだ。それを船乗りは心配そうに、けれども面倒な顔は一人たりともせずに、・ガドリア・に向かって敬礼をした。



「おい!山賊のアジトの場所を教えていけ……っ!」
「!」

 銀髪の青年が、そう叫び走っているのはにも見えていた。だけど、意識したのはもう眼前に来ている時点で、それは小さな橋の上のことで、避けることの出来なかったは勢いよくバランスを崩す。慣れてはいえど高いヒールを履いている彼女にとってこの突進は思わぬ痛手だ。そのまま倒れるのかと覚悟し反射で目を閉じたが、その青年の腕がの肩へと伸び、そして何とか転ばずに済んだ事に気付いたのは支えられたことにより完全に体制が整ってからだった。
「くそ……あいつ……」青年は肩を支えたまま吐き捨てるように言うが、目線は先を向いていたので、自分に対してではないのだなとは理解した。

「有難う御座います」

 そうハッキリというと、こちらに視線を向けた青年は少しだけ目を丸くした。

「いや——その、……俺が悪かった」

 あまり、こんなにも至近距離で家族以外の異性を見たことは無かったが、人を押し避ける、と言う行動を取ったことのないは、ただ彼のするままになっていた。
 そして彼は、何を思ったのか、右手は未だ肩を掴んだまま、の顔を見、少しだけ眉を顰める。だけどその表情は、の存在が嫌で浮かべている訳ではない、と何となく察することが出来たがその意図は読めない。

 そんな事、しかも見知らぬ人間の事、もしぶつかったのが違う人間だったのなら、彼は当たり障りのない謝罪を軽くして去るつもりだった。元々この彼には、寄り道をしている暇などない。しかし、だからと言って予定が幾つもあるわけでは無く、彼のスケジュール帳には1つの予定でいっぱいだった。

「どこかで、会った事ないか?」
「……いえ、恐らくありません」

 しかしそう返しても、また彼はを不思議そうに見つめる。そして今気づいたかのように肩の手を離した。何かを思い出そうとしているのだろうか。とは言え、の記憶の限りでは彼に会ったことなどない。彼が彼女の家で使用人として働いていたか、もしくは余程の上流階級ではない限り、出会ったという可能性は極めて少ないだろう。覚えるのが得意な彼女にとって、例え一瞬すれ違っただけだったとしても忘れるということはないし、そもそも出会ったことのある同年代の人物というのは指折りだった。
 気まずそうにうっすらと愛想笑いを浮かべていると、銀髪の青年、セネル・クーリッジは思い出した様に言う。

「なあ!お前、噴水広場がどこにあるか分からないか?」
「ええ、存じ上げておりますが」
「良ければ案内、してもらいたいんだが……」

 「俺、この街はきたばかりで」と言いずらそうにセネルは続けるが、それに断る理由も無く、は笑顔で頷いた。とは言っても自分が着いたのも今日で、まだ一回しか行った事がない広場だったが記憶力が良い。胸を張って誇れるほどに。
 そして、は「此方です」と、ゆっくりと歩き出そうとした所で、ハタと気付いた。

「急いだ方が……?」
「………なんでだ?」
「……先ほど、急いでいらしたのではありませんの?」

 顔色を伺うように、は首を傾げ聞いた。それにセネルは理解したように頷くと、苦笑気味に答えた。その顔はなんだか、どこか何かを諦めているようで、はうっかり失言をしたように思えた。そして、歩き出したについていくよう、セネルも歩き出した。「考えてみれば、急いでもあんまり意味ないんだよ」

「ウィル、って奴がこの町にいるだろ?たった今どっかに行ったみたいだし、そいつ待たなきゃな……」
「……ウィル、?」

 聞く、と言う意味では『ウィル』と言う名を呟いたのだが、それをセネルはただ確認の為に頷いたのかと思い、そのまま話し続けた。

「で、そういえばお前、この街の人なのか?」
「いえ、わたくしもつい先程此方に来たのです」
「……そうだったのか?」

 意外そうにセネルは言った。
 確かに、はほんのついさっき、ここに着いたばかりだけれど、少し考えるだけで見たこともないこの町の地図が頭に思い浮かぶ。が着いた時に、初めにやった事は町を一通り回ることだった。周りに誰もいない、初めての町だった故に、『普通の人』が来た時初め何をするかは分からなかったが、こうして彼の役に立っているのだから結果オーライといった所か。

「よく覚えてるな、道」
「……ええ、そうですわね」

 嫌味には聞こえないセネルの言葉だったが、は素直に笑って礼を言う事が出来ない。いつも言われ続けた事だったからか、彼女は分からない。
 少しカラカラした声で、彼に届かない程小さな声で言った。「取り柄、ですから」

「あなたは旅の方なのですか?」
「そうじゃない。入用があってここにいる。……っくそ……こうモタモタしてられねえのに……」
「……?やっぱり急ぎますか?」
「…………シャーリィ……」
「あの」

 反応が帰って来ず、困ったは辺りを見回すが助け舟を出してくれる人はいない。ここで何度も話しかけるよりは待つべきかと結論付け、じっと眺めながら歩いていると、ようやくセネルは気づいたのか、じっと見ていたに必要以上に驚いた。

「な、なんだよお前」
「思い悩んでいらっしゃったので、どうしようかと」
「どうしようって……」

 の中でセネルという存在が掴めないでいたが、セネルの中でも同じことだっただろう。



 近づけば近づくほどガヤガヤと賑わう声の聞こえる噴水広場。セネルはその様子にパチクリと目を瞬かせた。なぜなら、先ほどまでの道端であまり人を見なかったからだ。

「どうやら、いつもここに人々が集まる様ですわね」
「……ああ、そうだな」

 どこを見回しても、人、人、人。静かにそして且つ壮大に流れる噴水の音を聞いていると、なんだかまだ船の上に居るような気がしてきた。だけど船と違って、ここは賑やかと表現するよりも、騒がしい。なんだかくらくらと人に酔っている中、一人の少年がセネルに近づいた。
 まだ幼げの残るその顔、そして大きいと言うよりはブカブカに見える藍色の服。高く横に一つ結ばれた黒髪は、ツヤツヤと指通りのよさそうだ。より白い彼の肌は不健康的だった。ニッコリと笑ったその表情からあまり悪い気はしない。つられても愛想笑いを返した。

「こんにちは、お姉さん方。灯台の町は初めてですか?」
「ええ、ご丁寧にありがとうございま……」
「……おい」

 セネルはぐい、とを引っ張った。どうやら、あまり反応はしたくないらしい。「やめとけ」というセネルはの世間知らずさを疑った。けれど、一度反応してしまったせいか、小さな少年は目を細め、セネルを上から下まで眺めた。彼は露骨に嫌な顔をしたが、少年は知らんぷりだ。

「お兄さんの格好はマリントルーパーかな?」

 即座にそう判断すると、彼は続けた。「結構強そうですね」

『マリントルーパー』
 その言葉を聞いて、は頭の中からその記憶している単語の意味を引き出す。確かそれは、沿岸を魔物(モンスター)や犯罪者から警備する職業で、確かに知ってはいるけれど、格好から直ぐに分かるものではない。思わずもセネルの格好をまじまじと見つめるが、確かにそれらしい特徴は掴んでいる。
 は素直に少年の判断力に関心したけれど、彼女と少年二人の視線を感じるセネルはただ顔を顰め不快そうに、文字通りそっぽを向いた、のだが、少年はセネルと真っ直ぐ顔が合わせられる位置まで、自分を見てくれとばかりにわざわざ走る。その行動は子供らしいが、その行動に純粋な子供、というイメージはもう沸かなかった。

「護衛が一人で大丈夫なんですか?」
「…………は?」
「——ああ、いえ、気にしないで下さい。秘密だったかな?」

 と、少年はを見つめた。その顔は、ただこちらを見ているだけなのに、まるで内まで観察しているようで、なんだか寒気がする。先ほどまで好印象だった少年に対して、素直に不快に思った。

 『護衛』などと口にするとは思っても居なかった。護衛とはどう考えても、何も無ければ必要の無いもの。生きているもの、一人一人に護衛がつく訳じゃない。それなのに、少年は当たり前の如く言い放った。もしかしたら、勘付いているかもしれない。
 は顔を引き攣りそうになるが、少年は観察する目を切り替え、相変わらずの笑顔でまた聞いた。

「で、お兄さんは強いんですか、強くないんですか?」
「………知るか」
「……。知りたいなあ、どうしても知りたい」

 そう少年は呟くと広場の中央に行く。

「彼、どうなさったのでしょうね」
「………ああ言うのには関わらない方がいい」
「先程、ほんの少しだけ怪しく思いましたわ」
「はあ?『先程』?『ほんの少し』?……お前、無神経にも程があるだろ。あいつは最初からまるっきり怪しかった。それなのに反応しやがって……」
「まあ、折角話しかけて下さったのに」
「……いつか騙されそうだな、アンタ」
「………ご忠告ありがとうございます」

 少々不機嫌な声。そんな反応にセネルはこっそりとため息をつきながら、背後にあった大きな噴水を見る。ここの名前にもなっている噴水。名前、と言っても簡単に『噴水広場』と、ありふれた名だが、それ以外適当に綺麗な文字を続けて並べるより、とても良い気がした。

 二人で噴水を眺めているが、会話はない。まるで喧嘩しているようだとは他人ごとのように思った。セネルの言い分もなんとなくわかったが、丁寧に来たのだがから丁寧に返しただけだというのに。不思議な少年だった。ヒールのある靴を履いているためにちょっとだけ見下ろしてはいたが、実際はとそう変わらない身長だろう。ミステリアスで、物知りだった。
 そして視線を少しだけ反らすと、広場中央に行った先ほどの少年はまだいた。そして目が合うと彼は笑んだ。そして、大きく息を吸う。

「誰か、俺の挑戦する奴ァいねえか!もしも勝てたら5万ガルドやるぜ!」

 シン、と広場が静まり返った。「——と、この人が言ってますよ」


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