メリーゴーラウンドは
夢路を進む

06

「ど、どうしたの。なんだか疲れてるみたいだけど……何かあったの?」
「……何がなんだか……」

 私はいつぞやの坂道と同じように居間の手前で倒れた。実際倒れてしまうほど疲労していたかといえば、そうでもなかったのだけれど、ああもういいかなという気持ちで私は地面と抱き合う。その様子に坂道は焦ったような声を上げながら近寄ってきた。

「えっ、えっ、何してきたの?」
「何してたんだろう……」

 いつも私がやるように、坂道は私を引っ張った。ああ、引っ張ってもらうって結構楽だけど、床との摩擦が痛い。今度坂道が倒れた時はその辺りも考えて引っ張ってあげよう。
 学校でしたことと言えば、幹の手伝いだった。始めのうちはよく分からないまま見学をしていたのだけれど、パタパタと動く幹を見ていたら、さすがに動くべきかと手伝い始めたのだが、そこで手を引くところが見つからなくなったのだ。

 目を閉じて、私は夕飯まで休むことにした。

  *
「お前、1年か」

 そう聞いて来たのは体格の良い男性だった。ユニフォームに着替えているから何歳かは分からないが、雰囲気からして、先輩だろう。ドリンクを交換する幹の手伝い(とも言いがたい凄い細やかなこと)をしていた私は振り返った。

「はい。1年の小野田です」

 何で自己紹介しなきゃいけないんだろう、と疑問に思うものの、先ほどから同じようなやりとりはしていたので、マシンが決まった動きをするように多分さっき他の人に自己紹介したのと寸分変わらない角度でペコリと一礼した。そして顔をあげると、その聞いてきた先輩以外にも二人いる事に気付く。

「って、あれ、小野田さん?」
「………」

 ひょっこり顔を出したのは、

「手嶋先輩、と、青八木先輩?」
「おお、凄いね。覚えてくれてたんだ!」
「何だ。お前らもう知り合いだったのかよ。――俺は3年の田所だ。スプリンターを専門としてる」

 「まあ、この体格を見れば分かるか!」と、田所先輩は自身の大きなお腹を叩いた。ロードレースでのスプリンターとは何だろう、という疑問を聞く雰囲気ではなかったので、私は「そうなんですか」と当たり障りのない相槌を打つ。陸上競技でのスプリンターといえば、短距離走者の事ではあるが、ロードレースにおいて、同じなのかと言えば微妙そうだ。とりあえず、速い人という事で納得しておこう。

 相変わらず青八木さんは会話に参加はしないものの、頷いたり、話をしている人の顔をじっと見たりとしている。その様子に、ふと先ほど巻島先輩との会話を思い出してしまう。絶対この3人だけでは出会ってはいけないなと、思わず失笑しそうになるのを何とか堪えた。

「まさか小野田さんがロードに興味があるなんて思ってなかったよ」
「………組、何組だっけ」
「3組です」
「さん、3組………ああ、今泉と同じなのか、なるほどな」

 田所先輩は何かを察したかのように大口開けて笑うが、多分ソレは違う予想だなと私は冷静に思った。

「今泉、か……」手嶋先輩は少し目線を逸らしたが、すぐに顔を上げる。「分からない事があるなら気兼ねなく聞いてね。重い物なら俺達だって持つしさ」
「ああ」
「――その親切心もいいが、お前らはこれから峰ヶ山だろ?ほら行った行った」
「おお、そろそろ始めねーとな!じゃあ、古賀、後は任せたぞ」

 新しく現れた人は古賀先輩というらしい。長身でスラッとはしているががっしりとした体型、そして厚いフレームの眼鏡をかけていた。もう見慣れてしまったけれど、坂道も丸眼鏡じゃなくてこういったおしゃれ眼鏡のようなものに変えて見ればいいのに、と眺めていると、古賀先輩は首を傾げた。

「どうかしたか?」
「あ、いえ、何でもないです。1年の小野田です」

 今日何回この言葉を言ったんだろう、と心の中で一人思った。

「すまない、挨拶がまだだったな。俺は2年の古賀だ。今は……、主にマシンのメンテをしている事が多いから、マネジメント系の仕事なら被るかもしれないな」
「そ、そうですね……?」

 戸惑いが疑惑へ、そして確信へと繋がった気がした。これ、本当に部活動の見学してる事になってるんですね。

「小野田さん自身はロードに乗るのか?」
「……いや、乗らないです」

 そういえば前に今泉君にも同じ事を聞かれた。ただ、古賀先輩からの聞き方はそれとはどこか違うようで、キッパリと答えたものの、それが真実だと訴えるように彼の目を見た。

「そうか。……まあロードは危ないからな、怪我が多い」
「……サポーターとかも付けないみたいですしね」
「最大限まで軽くして走りたいんだよ。メットは規定だから仕方ないが、本来ならこれさえ外したいくらいだ」
「け、怪我したら大変ですよ」
「そうだな」と、古賀先輩は少しだけ声のトーンを落とす。

 スポーツは不得意だ。人には適材適所というものがあるし、私はそれを十二分に理解しているつもりではある。しかしだからといって、スポーツそのものをプレイする人たちを馬鹿にしているつもりはない。それだけ熱心に出来る事は凄いことだと思う。ただ、私の興味のアンテナが向かわないので知らないことは多い。
 自転車のことを当たり前に「ロード」と呼ぶのだって実際は知らなかったし、他にも分からない用語は沢山あるだろう。当然のことを知らないというのは向こうだって面倒だろう。それを互いに知らない同士で話しているならまだしも、プレイヤーと話しているのだから、どこか居心地は悪かった。
 
 それに、明後日のこともずっと心にあった。けれど、坂道が何をどういう約束していようが私には関係ないし、彼がやると言ったからにはそれまで。出来ないことは出来ないと(一応)言えるだろうし、今泉君だって脅してでもハイと言わせられる人じゃない。彼は普通に良い人だし。ただの、兄とその同級生の約束事だ。そう思えばいいはずだというのに、周回するロードバイクが駆け抜ける度に私はどこか寒気を感じていた。こんな小春日和、暖かいはずなのに。風を切る速度は、この前鳴子君の後ろに乗った速度とも、きっと、全然違う。

ちゃーん!」

 色々考えていると、遠くから幹の声が聞こえた。彼女の明るい声は私のもやもやを吹き飛ばすよう。

「ごめんね、見学と言いつつお手伝いまでさせちゃって!もう片付けしかないから、帰っても大丈夫だよ」
「そ、うなんだ」

 じゃあ帰るね、の言葉がなかなか出なかった。いや、帰ってもここは誰も責めないだろう。私は見学なのだ。ただの見学というか、コレは完全に入部の流れになっていそうだけれど、とにかく見学だ。大丈夫。私は幹と古賀先輩を交互に見て、じゃ、じゃあ、と口を開いた。

「せ、折角だから、私も最後まで手伝う、ね」

  *
「ほら、もう、くわえ箸しない!」

 という母からの叱咤が飛んだ。ハッと気がついて口を開けると、確かに私はずっと箸を加えていたようで、少し苦い味が唇に残っていた。テーブルマナーはそれなりに心得ていたつもりではあったが、これに気付けない程、ぼんやりしていたとは不覚である。

「ちゃんとしなきゃ駄目よ」
「ま、まあ母さん……。は今日疲れてるみたいだから」
「最近帰り遅いわよね?何をしてるの?」
「……何してたんだろうね」

 ぼぅと今日の事を再び思い出した。NOと言えない日本人、とは色んな所で聞くが、正に今日の私はソレだっただろう。帰りたい帰りたいと心が叫んでいたのに建前の義理でずっと残ってしまっていた。
 とはいえ、帰ってきて思ったのは、疲れた、という感情だけで、やっぱ帰れば良かったなんては思わなかった。何だかんだ、何かに一生懸命な人たちを見るのは好きなのだろう。こんな自分を客観的にジャッジしてしまうくらい、なかなか自分らしくないことをした。

「そういえば高校入ってからよねえ……帰り遅いの……」
「母さん?」
「まさか、……」

 それに、幹も凄く楽しそうにしていた。思えば中学の時から部活見学をほとんどしてこなかったので、選手の練習風景もだけれど、マネージャー業というものを初めて間近で見たかもしれない。帰る時に校庭や廊下を見れば、意識せずとも部活動が視界に入っていたがそこにマネージャーが一緒になっている訳でもない。言ってしまえば凄い地味だった。それでもこのコツコツとした一つ一つのことがプレイヤーへの助けになるのなら苦ではないのだろうか。分かったような、分からないような、そんな日だった。

「もう彼氏出来たのかしら!?」
「え、ええええーーー!?本当?!誰?!」
「………え、何が、誰が?」

 何やら盛り上がっている母と坂道に温度差を感じながら私は聞き返した。何の話をしているんだ二人は。とりあえず聞こえてきたような気がする母の声を思い出し、私は答えた。

「帰りが遅いのはたまたまだよ。道案内したりとか、今日は部活見学してたんだけど」
「……、入る部活決めちゃったの?」と、坂道はショックそうな顔をした。「あ!いや、別にいいと思うよ!あ、アニ研なんて地味だしね!アハハ!」
「――や、成り行きって感じだから、多分今日だけだよ」

 そういえば私が入る部活は決まってるんだった。否定するとすぐに坂道の顔は戻ったので、私はそっと笑った。

「もう、そんな兄妹揃って同じ部活だなんて…。仲良いのは良い事だけど」

 そう母がいうセリフはどこかで聞いたことがあるなと思えば、そういえば、高校を決めた時に友達に言われたことだった。それなりに兄のことは家族として好きではあるが、無理にあわせているつもりは毛頭ない。ただ思考回路は似てしまっているせいだと、私は思う。好きな食べ物も一緒だし、好きな番組は、違うけれど、育った環境が双子ゆえにほとんど同じだったのだから仕方ないだろう。
 私はこれに不満はないし、何だかんだ、同じというものは心強いものだ。

「アニ研にちゃんとした部員が入れば、私は抜けると思うけどね」
「あら、どうして?」
「だって、私、アニメ詳しくないし、部活が復活すれば私いらないよね」
「……坂道」
「い、いらないとは思ってないよ!がいてくれるなら僕も嬉しいよ!」

 母からの冷ややかな目線を感じてか、坂道はフォローをする。

も含めて、皆でアキバ行けたらなって思ってる!」

 皆、というのは未だ見ぬ仲間たちの話だが、坂道のこの夢は中学の時から変わっていないのだ。そろそろ彼ら一人一人に設定がついてもおかしくないかもしれない。その人達らと私も一緒だなんて、じわじわと笑えて仕方がなかったけれど、悪い気はしない。

「お兄ちゃんの自転車のペースならみんな置いていかれるかもよ」

 仮入部みたいなものだったけれど、"部活"後の疲労感の残ったまどろむような食卓。これを食べたらさっさとお風呂にしようとか、昨日途中で読むのを止めた本を思う。こんな優しい雰囲気で、「ねえ、明後日に今泉君とレースするの?」なんて、少し口を開いたら聞けるのに、どうにもその形には口は動かなかった。

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