メリーゴーラウンドは
夢路を進む

07

「……はよ」

 高校入学して、今日が初めて今泉君に朝の挨拶をされたと思う。(脱線するとまず誰かに教室で私個人相手に挨拶されたのも初めてかもしれない。)今泉君と私の関係性は未だ不明瞭で、『クラスメート』と呼べばそれまでなんだけれど、クラスメートって一口にいっても色々と差はある。話すだけの人、遊びも行ける人、教科書見せてって言える人、エトセトラエトセトラ。
 そもそも、今泉君は不特定多数に「おはよう」と挨拶をしながら教室に入るような明るい人類じゃないのだ。まあ、それは私にも返ってくる。

 あまりに動揺してしまった私は、右見て・左見て・真後ろを見て、やはり私に言っているのだと確信を持ってから、今泉君に挨拶を返す。「おはよう」

「横断歩道かよ」
「………そのつっこみ面白いかも」
「ピックアップするな」

 ああ、でも右見て・左見て・もう一回右見るんだっけ、と今泉君に聞くと、「さあ」と呆れた声を上げる。もしかしたら地域差もあるかもしれないな。

「──そうじゃなくて」

仕切りなおしたのは私だった。

「どうかしたの?今泉君って用がなければ話しかけないよね」
「……まあ」頷きながらもどこか不服そうな顔をした今泉君は続ける。「今日、だなって」
「今日?……ああ~…あの、えっと、お兄ちゃんが払い落とされる日」
「それでいいのかよ」

 別にふざけた訳じゃないけれど、今泉君が言った通り、というよりはまるで坂道がまるでホコリのような例えで返すと、少し怒った風に言う。(いや、実際怒ってはないとは思う。だって今泉君っていつもこんな調子でしゃべること多いし)とはいえ、別に、今泉君の肩を持つわけじゃないし、どちらかと言うわけでもなく、血を分けた兄が勝ってくれた方が嬉しい。確かに、今泉君に、見てもない坂道の自転車の話を妙に下に見て話された時はムッとはした。
 だけど、本気でスポーツとして自転車を漕いでいる今泉君と、ほぼ趣味で漕いでいる坂道を冷静に比較して、どんなに家族が可愛いからって「今泉君よりもずっと早い」とは言えない。無謀である。
 先日今泉君と幹にも直接言ったのだが、ステージが違うのだ。

「お兄ちゃんの事は、応援してる」

 坂道は無駄に自転車に乗る。ヒメヒメだか、ラブヒメだかのため。マニュだか、マニュマニュだが、マニュマニュマニュだか、のため。浮いた交通費をカプセルトイに使うのだ。それが彼のベスト。でも、それは決して別に誰かと競争しているわけじゃない。(…いやもしかしたら姿もしらぬオタクさんとグッズ争いをしているのかもしれないけれど、それは自転車レースじゃない)

 私の口の中で固まりかけていた言葉がはっきりと浮かんでくる。口の中がそれいっぱいになっているよう。いや、そんな子供みたいなこと言ってどうするんだ。いや、いや、

「でもレースは、正直、」あ、間違えたこの先はあんまり良くない話だ、と、私は言ってしまった事を後悔したが、しっかりと私を見据え、私の言葉を待つ今泉君の姿を見てしまったからには、続けるしかなかった。「してほしく、なかったかも、……しれない」

 嫌なんだ。

「……何故だ」
「何でって…………」

 今泉君がまたしても責めるように言うので、私は口ごもる。もうほっといてくれって思った。

「今泉君には、わからないよ」
「……分からない?」

 そもそも、何で朝からこんな言い合いみたいなことしなきゃいけないんだろう。今泉君だって別に喧嘩売ってきてる訳でもなかったのに。しかし今、どちらかと言えば喧嘩売ってしまったのは私だし、今泉君は先の言葉を求めている。私は今泉君の為に熟考出来る時間もなく、あまりよくない言葉を続けてしまうんだ、という岩のように重い罪悪感に押しつぶされながら、口を開く。

「……私には、圧倒的な差を感じるよ。輪になってバレーするのとは訳が違うじゃん。どこを走るか分かんないけど、レースって個人競技だし、危ないと、思う。誰も助けてくれないし、自分で制御出来ない速度が出るんだよ」

 嘘じゃない。全部今まで坂道を見て、今泉君を見て、自転車競技部を見て感じたことだ。それなのに、私の声はどこか震えていて、頼りなくて、まるで煙だった。私の口の中で固まっていた言葉をなんとか噛み砕いて、どうにかしたくて。結果は誰の心にも響かなさそうな無意味な音になって、ただ顎が痛くなっただけ。恐る恐る今泉君を見ると、あまりにも真っ直ぐこちらを見ているせいで、また視線を落とした。

「危ないって言ってたら何も出来ないだろ」
「……じゃあ、今泉君は、初めてのレースに何も準備しないで出たの?転び方とか、自転車のメンテナンスとか、そういうの学んだ後じゃないの?」

 過保護な訳じゃ、きっとない。坂道だって15年も生きてるし、男だし、そもそも自転車で怪我なんて珍しくない。それでも、規定速度は守っているだろうし、無理のないペースで走っているはずだ。でも、本業の人を相手して、何も問題なく走れるならきっと自転車競技部なんてない。今泉君は自転車だから、なんて思ってるのかもしれないけれど、私からしたらグラウンドで徒競走じゃなくて、アメリカ映画ばりのカーチェイスをするくらい恐ろしいものだと思っている。

 今泉君は何も言わなくなった。盗み見ると、考えているような顔をしている。

 と、フと気付いた。

「……私、凄い喋ってる」
「そう、だな」

 呆気無く呟くと気を張っていたような顔だった今泉君はため息をつき、その顔にどこかホッとする私もいた。

「……悪かった」
「どうして?謝ること、ないと思う」
「お前からしたら、俺は、身内を危険な目に合わせてる奴だ」
「うーん……まあ、そうと言えばそうだけども」

「だけど」今泉君は少しだけ下を見て、また私を見た。「悪いけど、お前の考えている以上に、懸念点を払い落とすことは俺の人生にかかってる。お前にとっては、たかだか自転車かもしれないし、これはにも小野田にも関係ない話なのは分かってる。それでも、俺は進むことを止められないんだ」

 ハッとした。私にとって自転車はほとんど乗らないものだし、それほど必要なものじゃない。でも、(当然だけど、)今泉君にとってはそうじゃないんだって、ようやく実感した。
 今泉君がどうしてそこまで坂道に固執しているのか分からない。ゲームみたいに手当たり次第勝負をしかけている訳じゃないし、何か確固たる理由はあったに違いない。それが、私と坂道に関係のないことだって今泉君は理解していても、知っていても、謝る結果になったとしてもだ。

「私は、上手く分かってあげられなくて、ごめんね」

 今泉君は頷かなかった、し、頷かなくて良かった。私は恐らく今泉君のプライドを傷つけてしまったと思う。譲れない部分だったんだ。そこに対して、無理に融通してくれなんて言えない。
 緊迫した空気が溶けるのを肌で感じる。本当、朝から何してるんだろ。

「……それでも」と、今泉君は私から目線を逸らした。
「うん?」
「小野田は、俺に勝つと思ってる」
「…………ええ……」

 随分と気の抜けた声が出たなと自分でも思う。

「うん、まあ、うん、彼はポジティブだからね……でも、やる気なら、なんだろ、うん、安心した。……勝ったら何かあるの?」
「……俺が、アニ研に入る」
「…………ええ……」

 本日二回目20秒ぶりである。

「じゃあ今泉君が勝ったら何かあるの?」
「その話はしてない。俺から言い出したことだからな」
「お兄ちゃんは別に自転車競技部で欲しい訳じゃないしね」
「無理に入っても続かない」
「運動部は、特にね。……アニ研入ったら秋葉原に一緒に行くの?」
「……お前も俺が負けるというのか」

 そういう訳じゃないけれども、と私は笑った。
 いやでも、今泉君って結構凝り症っぽいところがあるから、そういう趣味に意外とハマってくれるかもしれない。アニメ系ショップに、今泉君みたいなタイプの人がいたらちょっと浮いちゃうかもしれないけれど、人の目を気にしないマンの今泉君だったらジロジロと見られても気にしないだろう。

「……そもそも、詳しくもない俺が入ったって小野田もつまらないだろ」
「一人で盛り上がれるタイプだから大丈夫だと、思うよ」
「その言い方はどうなんだ…?」
「まあ、楽しむことに時間とか、知識量とか関係ないって考えてると思う。好きとか、興味あるってだけでお兄ちゃんが全部説明してくれるだろうし」

 というのは、全て体験談だ。坂道の見ているものはさして興味はないけれど、友達いない坂道にとって、私は唯一の話し相手だった。だからこそ断片的によく知っている。作品も、そうやって説明してくれる様も。

「あ、でも今泉君がアニ研に入ったら私も秋葉原行かなきゃいけないのかな」
「何でお前も?」
「まだ正式に提出してないけど、私もアニ研なんだよ」
「……もそういうの好きなんだな」
「いや?」

 語尾を上げて否定したところで、朝のチャイムが鳴った。ああ、微妙なタイミングで途切れてしまったけれど、思えば今泉君が坂道と同じようにアニメとか好きだったらどうしよう。こういう趣味を隠す人っているし、もしかしたら、私の知らない所で二人でそういう話で盛り上がってたかもしれない。
 席に座ったところで、今泉君の背中をシャーペンで突いた。

「今泉君」
「……何だよ」
「どんな趣味でも持ってることは良いよね」

 そういうと、今泉君は無言で前を向いた。

  *
「そんでなあ、小野田さん、土日どっちか空いてるか?」
「えっと………」

 5限は移動教室だった。数学と英語はクラスを2つに分けて少人数で授業が行われている。恐らく学力で分けられているみたいなのだが、どちらも、テストの結果が良いと普段の教室ではない違う特別教室へ移動になる。そこの設備が良いというわけでもなく、それよりか普段こういった時でしか使わないただの教室なので、無駄に殺風景に感じる。その為、繰り返すが『成績優秀』なのに、わざわざ殺風景なところに行く特別教室組は、悲しいことに教室組からは「島流れ」と呼ばれているのだ。

「ほら、前にしてたやろ?アキバ行こって話!」

 いや、まあ、そんな事はどうでもいいんだけど、そんな移動で幾らか時間を使うという時に、そんな時に鳴子君に捕まってしまった。鳴子君とは、数日前に一緒に帰って(?)から時たますれ違う時には挨拶はする程度になっていたが、ここまで捕まってしまうのは今日が初めてだった。最初は腕時計をそっと確認していたが、今は鳴子君の顔よりも、腕時計を見つめてしまっているかもしれない。

「……それ5月って行ってなかったかな」
「せや、でもな、弟達に催促されてなあ~こりゃはよ行かなアカンねん」
「そうなんだ……」
「でな、ワイ1人だとぜっったいに迷うからな、ここは是非とも小野田さんに着いてきて欲しいんや!」
「う、ううん、あの」

 それより私は授業に行きたい、とも言いだせずに、私はどうにか伝われという気持ちを込めて鳴子君を見る。

「アキバやと、集合どこがええんかな」
「…………」これは無理だと私は確信した。
「あ、土日予定あんなら……せや!今日はどうや?!買い物だけやし、すぐ終わるしな!」
「っ今日は……」
「ん?」

 今日は、坂道と今泉君のレースがある。そう言おうとしたけれど、思えば鳴子君は二人の知り合いってわけでもない。何という言い訳にしようか考えているうちに、あと2分ということに気付いた。

(いや、でも、)

 別に私は見に行くとは言っていない。それに、自転車レースって別にずっとは見れない。マラソンだって、どっかの地点で立って旗振っているだけ。ゴールで待つという選択肢もあるけれど、ゴールで、もし、坂道が負けて、今泉君のあとから来た時、私はなんと言えば良いだろう。どんな顔で迎えられるのだろう。惜しくないかもしれない。そもそも、坂道が限界を感じて、ゴールにさえ来ないかもしれない。

 それに、その時の坂道の顔だけじゃなくて、今泉君の顔だって、正直、見たくない。曲がりなりにも、家族の勝負だ。それで例えば勝ち誇った顔をされても嫌だし、他の顔だって受け止められるか分からない。

(そうか、私は、)

 坂道は絶対負けるって、心の底から思っているんだ。クラスの人だって、他の人だって、赤の他人だって誰だって分かること。勝って欲しいのはただの希望で、実際浮かんでいる景色は、坂道が今泉君に完敗するシーン。だって別に坂道は今日のために走り込んでいる訳でもないし、特別な自転車を買っている訳じゃない。負けても仕方ない、そうやって思い込もうとしてるけれど、坂道は勝つために今日レースに挑む。それがどんなに、純粋で、迷いがなくて、恐ろしいことと知らないんだ。

「……また、何か考えてるんか?」

 鳴子君は言った。それにドキリとしたところで、1分前の予鈴が響く。

「おお、そーいやもうそんな時間か!小野田さんは次どこなん?」
「数学の移動で……」
「あー、流刑だったか!」

 とうとうそう呼ばれているのか。
 ではなく、次の教室はここから2階、階段を登らなきゃいけないから急がないといけない。「急いだ方がええな」と鳴子君は私の背中を押す。その勢いのまま近くの階段のまで行ってしまったが、思い出し振り返る。

「あの、今日、は、」息を吸った。「空いてる、から、また後で話そう」

  *
 いつも自転車だったはずなのに、今日の鳴子君は訳あって電車で来たらしく、嫌々そうな顔をした鳴子君を引きずるように、電車に乗って一緒に秋葉原に到着した。何でも、今日は親が車で送ってくれたらしいが、自転車を積み忘れたらしい。電車で流れる景色を鳴子君はまるで牢獄の囚人のような顔をして眺めていた。鳴子君も確か、ロードレーサーを持っていると聞いたことがあったはずだが、こうなると自転車好きというより自転車狂いだ。

「鳴子君は、結局何が買いたいの?」
「えーっとな……」

 改札を抜け、アトレ前で鳴子君はガサゴソと鞄を漁った。

「ここなんやけど」と、出されたのは、雑誌の切り抜きだった。
「随分古いやつだね……」
「そう!それでいてまたしてもこの簡略化や!」

 前に鳴子君に出された地図も図形というより線だけの地図だったなと、にらめっこを開始する。電車でぼーっと座ってる時に見せてもらって置けばよかったな。秋葉原は坂道の付き添いでしか来たことがないし、それも本当に数回だった。まあ、坂道は電車賃を浮かすために自転車で秋葉原に行ってるから、それには着いていった事なく、付き添って行ったのは家族で買い物している時くらいだ。

「というか、マップを開けばすぐ分かるかな」

 スマートフォンからマップアプリを起動し、記載されている住所を入力した。しかし何の問題か、明らかにその場所じゃない部分にピンが立った。

「ここじゃないと思うんだけど……」
「とりあえず歩いてみるか!」

 鳴子君は考えるより行動派だった。スマホを見たままの私を、今度は鳴子君が引きずる。「歩きスマホは危ないでー?」と彼は言うけれど、マップを見ていないとどこ歩いているか分からないのは困る。そうなると互いに困るはずなのにな。とはいえ、確かに危ない行為をしてるのは私なので、時たま鳴子君と一緒に立ち止まっては、位置を確認した。

「鳴子君は何が欲しいんだっけ。プラモデル?とかいうやつ?」
「せや!それのガンダムのやつ!」

 勝手に『プラモデル』と呼ばれるやつは全部ガンダムだと思っていたんだけれど、色んな種類があるのだろう。私には分からない世界だ。鳴子君もまるで坂道と同じような顔で楽しく言うので、私は思わず聞いた。

「鳴子君も、そういうの好きなの?」
「いや、全く分からん!」

 分からんのか。

「……あ、そうだよね、弟さんへのお土産だしね」
「まーでも、それに対する職人の情熱は分かる!あのちっこいモデルに男の熱い拘りが詰まってるんや!」
「そうなのかな」

 勘違いとは分かりつつも、まるで身内を褒められている感覚のようで、私は少し言葉に詰まった。いや本当、別に、坂道が作ったわけじゃないけども。

 暫く歩いていると、ようやくピンが刺した付近についた。がしかし、同じビル名はないし、色んなビルのテナントを見たけれど、同じ店名はなかった。歩き疲れたのが手に取るように分かったのか、流石に鳴子君は「小野田さんはちょっとここで座っといて!」と、私を置いてあちこち探し始めた。
 まだ肌寒い日が続く4月だったけれど、今日は歩いたせいもあってか、この落ちかけの春の日差しが少しつらい。スクールバッグから下敷きを出し、仰いでいるところで私は大事なことを思い出し、再度スマホを取り出した。

「ん~~~やっぱ無いなあ!」
「……鳴子君」
「どうした?」
「潰れてるよ、この店……」

 ネットで調べれば良かったんだ。ぽかんとした鳴子君にも見えるように、検索結果を掲げて見せる。しかも結構前にビルごと潰れているよう。

「か、堪忍なーーーー!本当に申し訳ない!」

 鳴子君が頭下げながらそう大声をあげるから私は思わず立ち上がった。「いや、いいよ!私だってさっさと探せば良かったんだし、仕方ないよ」

「とんだ無駄足してもうたな……」
「他の店探す?」
「………」

 悩んでいるように腕を組んだ。他の店、と言っても、『ガンプラ』がそういうオタクショップみんなにあるのかもわからないし、また無駄足になりそう、と私が思っているくらいだから鳴子君もそう思ってそう。そういう店、と思い返して、坂道なら絶対分かるはず、と、スマホをまた見るが、駄目だ。今日はレースの日。

「……今日の予定、本当に良かったんか?」

 鳴子君は見てないようで見てるし、それを口に出して言えるタイプだから、正直、苦手かもしれない。

「うん、約束があったわけでもないし」
「小野田さんがええなら、ええけど」鳴子君は珍しく、濁した。「よーし、今日はもうぎょーさん歩いたし、茶シバいて帰るで!」

next →