メリーゴーラウンドは
夢路を進む

08

「あ、。おかえり~」

 息を呑んだ。居間にはいつもどおりの坂道が座っていたからだ。いや、いつも通りで良かったのだが、そのあまりにも不釣り合いな笑顔に、私こそ表情が固まった。(わずかな変化だろうけど)
 この温かい匂いから、今日はハンバーグかもしれないと思考を落ち着かせようとするけれど、それよりもいやに不自然に、笑っている坂道に目が離せなかった。

「あのね」

 普段、彼との会話はいつだって、坂道から始まる。あまり多いものではない。だから、必然と次に何が出てくるのか安易に予想が付くようになった。スクールバッグを置いて、平然な顔をしてブレザーをハンガーにかけているが、心臓が震える。

「僕、負けたんだ」

 やはり、と素直に思った。

「…………今日の、レース?」
「……あ、そうそう!言ってなかったんだけど、知ってたんだね!最初にハンデ貰ったんだけど、本格的に自転車やってる人って違うんだなあって……は走ってる今泉くんを見たことある?」
「……少し」と、思い出すのはこの前の強制仮入部だ。
「そうなんだ!」

 坂道はニコニコと頷く。
 私は喉が乾くような感覚がした。台所からはお母さんの規則的な包丁の音が絶えず聞こえる。居間のテレビからは今日のニュース。坂道の手元のスマートフォンゲームからのわずかなSE音。それでも心の中はずっと静かで、坂道の声だけが反響していた。どうしてそんなに笑っていられるの。

 言わなくちゃ、という感情と、駄目だ、という理性が過ぎった。わずかながら、ずっと理性が勝っていたから、私は口をつむぐ。
 泣いていればまた違った。坂道は滅多に泣かないけれど、もっと感情をぶつけてくれていれば、また違っただろう。私ばかりがかき乱されているよう。これじゃあ私が子供のよう。

「アニ研は」
「……え?何か言った?」
「………アニ研は、いいの?」

 言ってしまった。と思った。坂道は口を少し開けて、ぽかんとしている。

 ずっと、ずっと彼の夢だったのに。高校になったらアニメ研究会に入って、みんなで遊ぶんだっていつだって言っていた。その夢の一歩だったのに。なんで私がこんな気持ちにならなきゃいけないんだ、という理不尽な怒りさえ芽生える。

 だけど、それを声に出して言えるほど、坂道にとってその夢は気軽なものじゃない。ずっとの夢。正直、夢なんて言えるほど大きいものじゃないのは私にだって分かるし、坂道だって知っていると思う。きっと誰かは当然のように出来るし、友達さえいれば難しいものなんかじゃない。けれど、そんな当たり前が出来なくても生きて行けているんだ。私にも当てはまる話だが、そんなことしなくてもこうして脇道を通って呼吸することが出来る。必要なことじゃないから、後回しになる。よーいどんで走った100メートル走のタイムが皆で異なる通り、出来るものと出来ないものというのはいくらでもあるが、それが必ずしも超えなきゃいけないものではない。
 
 こんなことで途絶えるものじゃないけれど、現状、入ってくれる人なんていないようだから、蜘蛛の糸ほどの可能性でも縋っていたのに。どうして笑えるんだろう。

 私が代わりになれるんだとしたら、それで良かった。だけど、そんなに仮初にしかすぎない。友達とじゃなくて、家族と遊びに行くなんて、小さい頃から何度だってしている。私が叶えたい坂道の夢は、私からずうっと、遠い所にあるんだ。

「………また、振り出しに戻ったって感じかな」

 諦めたような表情で言ってほしくなかったのに。

  *
 次の日、日直だったから、朝早く教室へ向かった。ここまで早くこなくてもいいのだが、坂道と一緒の時間に、一緒に学校に向かいたくなかったという感情が強くあった。

 一気に暖かくなってきた最近の春の陽気が、私の頬をくすぐるように撫ぜる。あまりに呑気な天候と私の気持ちは真逆すぎて、ため息が出る。

 どうやら、昨日の日直が適当に仕事をしたせいで、黒板やら、そういった備品が少々乱れている。昨日は誰だろう、と思ったが、気が散っている今はこうして何かすることがあることの方がいいかもしれない。ぼんやりと昨日の人に感謝していると、朝早いこの教室のドアが開いた。

「………、早いな」
「………おはよう、今泉くん」
「……おはよう」

 ギクシャクした挨拶だった。これは昨日の事は関係なしに、そもそも私も今泉くんも挨拶初心者だからだろうか。いくらレースのことがあったからって、今泉くんに会いたくない!という程ではなかったが、朝一のクラスメートが今泉くんというのは聞いてない。それはきっと、彼も同じだったようで、ゆっくりと席に移動するが、視界の隅で気まずそうな表情をしているのが伺えた。

「昨日、の話、兄貴から聞いたか」

 どうやら私の周りの男性陣は止まることを知らないらしい。絶対にこの会話はしない方がいいなと考えていたのに、思わぬ爆弾を無視する訳にはいかない私は、観念して振り返った。

「うん、おめでとう」
「―――小野田は、」今泉くんは言葉を選ぶように続ける。「諦めない走りをするやつだった。ケイデンス……ペダルを回す速さも、激坂をママチャリで登っていく脚力も、ロスの少ないペダリングも、日々走っているとはいえ、才能はある」
「……うん、そっか」

 返事が投げやりになっているのは気づいていた。今泉くんがどう思っているか分からないけれど、早くこの会話を終わらせたくて仕方がない。

は、アニ研がなければ何に入るんだ」
「え……なければ何も入らないんじゃないかな」
「…………そうか」
「うん」
「………寒咲が気にしてたんだ」

 ぼそ、と今泉くんは言う。その意味が分からず聞き返すほど、さすがにバカではない。確か、この前顔出して分かったけれど自転車競技部の女子メンバーは一人だけ。それに、他のレースに出るような部員が裏方を交代してみたりと、圧倒的にマネージャーは足りていない。もちろん、幹は(会ったばかりなので真意は知らないが)そういう事を気にしているわけではないだろうが、坂道と同様に好きになってくれてたら嬉しい、という人間なのだろう。

「……部活、強制って訳じゃないし」
「そう、だな」
「そういえば」この話をどうにか終わらせたくて、思考を巡らせた。「お兄ちゃん、が、今泉くんに返したいものがあるって言ってたから後でここ来るかも」
「……サイクルコンピューターか?」
「んー…スピードメーターって言ってたような」
「……サイクルコンピューターな」

 専門用語があるらしい。少しだけ柔らかくなった雰囲気にホッとした。今泉くんと話していたことで、すっかりと黒板の清掃が後回しになってしまったと、思い出したように黒板消しをクリーナーにかけて、一面を再度拭いていく。

「お前は、」

 坂道も身長が高い方じゃないが、私もそれより更に低い。その為、全くてっぺんまで届かなかったことに、ビックウォール今泉は気になったのか、立ち上がってはもう一つの黒板消しを持った。そしてゴシゴシと、私を見ずに続けた。

「もし、兄貴が、小野田が自転車競技部に入ったら嫌か」
「え、……いや、入らないと思うよ。だって、」
「『だって』アニ研はもうないだろう」
「っでも、」

 無理に入っても続かないなんて言ったのは今泉くんだ。突然の話に私はただただ困惑していた。考えると手が止まる私と違って、今泉くんは淡々と掃除を続ける。

「勧誘した訳じゃないし、今日だって勧誘するつもりはない。どんな事だって共通するだろうが、金はかかるし、根性がなきゃ続かない」
「だから、それはお兄ちゃんとは関係のない話じゃ――」


 一体全体なんで私にこの話をしているのかが分からなかった。そんな話、それこそ坂道と一対一ですればいいだろうに。私の中がかき乱されているようで不快だった。今泉くんは、こんな人じゃないと思っていたのに。もっとクールで、もっと、関わりたがらない人だって、思ってたのに。

「何で変化をそこまで嫌うんだ、お前は」
「い、今泉くんはどうしてそういうの」
「……夢は大事だ。だけどそれが違う形になることもあるだろう。お前が勝手に小野田の夢を押し付けていないか」

 まるで風船の紐をずっと持っている子供だというのだろうか。ずっとずっと大事にしていたものだからと、坂道の風船を勝手に私がずっと、つなぎとめている。その紐を離せないでいるのは私だけだというのか。坂道は既にもう、手放しているとでも言うのだろうか。
 淡々という今泉くんの言葉は全部私に突き刺さった。でも、それを坂道本人から聞いたわけじゃない。昨日の夜だって、自転車がしたいなんて一言も言ってない。

 全部、憶測だ。

「………悪い」

 一方的に話して、一方的に彼は謝った。
 今泉くんに文句を言えば、泣き言を言えばいいのか、それとも笑えばいいのか分からない私はただただ口で呼吸するだけで、上手く言葉が出てこない。

「……少なくとも、小野田からは自転車への興味があるように見えた」
「…………それが夢を捨てられるくらいの話なの?」
「ここまで話したが、それはもちろんお前の方がよく分かってるだろう」
「…………」
「ただでももし、小野田が進みたいというならそれを止めないで欲しい」

 まるで今泉くんこそ『お兄ちゃん』のように、私を諭す。優しい言い方だ。凄く、ずるいと思った。

 でも、と反論したくても、昨日の坂道を考えてしまうと、私は最善が分からなくなる。坂道だって、夢をまだ諦めていないだろうが、自転車へどう思っているかなんて分からない。何か言いたくて仕方ないのに、その言葉が何なのか、心の中で何を叫んでいるのか自分でも分からなくて、綺麗な言語化が未だ出来ない。

 呆然と立ち尽くす私を放っておいて、今泉くんは次々に清掃を終わらせる。最後に、私がずっと意味もなく持っていた片方黒板消しをそっと回収すると、それをクリーナーにかけた。そろそろ時間的に、誰かが来てもおかしくない頃合いだった。

 今泉くんは、坂道の何を知っているんだろう。と、浮かぶと同時に、じゃあ、私は坂道の何を知っているんだろう、とも、思った。ずっと今まで見ているつもりだった。だけど、今まで誰も着目しなかった坂道の自転車の才能を見出した今泉くんがいる。同じように幹だっている。ずっとこういったことなんてなかった。もちろん、坂道に友達が出来て欲しいと私だって想ってる。だけどそれは漫画とか、アニメとか好きな人達だろうって考えてたから、違う所からのアプローチに吃驚しているのかもしれない。私は坂道ではないのに。私が口出しをする権利なんて、ないのに。

 ビュービューと、家の掃除機よりもうるさいクリーナーの音を聞きながら、私は頭に浮かんだ言葉を、何となしに口から吐いた。

「私、きっと、寂しいんだ」

  *
 今日の昼はさすがに教室で食べる気になれなくて、私は弁当を持ったまま、外に出た。一人でこうして昼に出かけることは、前に購買に行ったっきりだったから、よく知らなかったけれど、ポカポカとした春だからか、野外で食べている人は多かった。もちろん、一人というより、グループが圧倒的に多かったけれど。

 木陰に腰を下ろそうとすると、物陰に既に誰かがいることに気付いた。

「あ、」
「………巻島先輩……?」
「………ッショ……」

 どうしてもこうも、自転車に関係ある人しかいないんだろうと、座ろうとした身体をなんとか自然に直そうとしたけれど、さすが私と同様にコミュニケーション皆無族の巻島先輩は素早く何かを察したようだ。「いや、ここ座れッショ。俺ももう行くし」

「い、いや、大丈夫です。他行きますよ。お昼食べて下さい」
「……この後ちょっと部に顔出す用事があるんだ」

 それは気遣いなのか、嘘なのか、分からない表情で巻島先輩は言う。
 さすがに2回とも断るのは先輩に失礼かと、少々間をあけて座った。こうなったら私もさっさと食べて他の場所に移動せねばならないかもしれない。お昼休みはこういう時不便だ。無駄に30分も休みなんて無くてもいいだろう。

「……この前は悪かった」

 もう行くとはいえど、巻島先輩はまだ完全に昼を食べきった訳ではない。咀嚼の間に、私に謝罪をした。何か謝られることなんてあっただろうか。会話が続かなかったからって謝っているのだとしたら、それは私にだって返ってくる問題だ。

「え、と………」
「……この前、俺がお前が体験入部と勘違いしたせいで、放課後付き合わせたよな」
「………ああ……」

 そういえば事の発端は巻島先輩からだっただろうか。うろ覚えではあるが、そういえばそうだったような気がする。いくらコミュ障族の巻島先輩といえど、変な被害妄想なんてしないだろうし、じわじわと勘違いされてたのかと想っていたけれど、巻島先輩がそういうなら、一応彼が煙の元だったのだろう。

「大丈夫、です。特に何か用事があるわけじゃなかったですし、私も紛らわしい言い方をしたと思います」というのは建前であり、実際何を言ったか覚えてないのだが、先輩だけ謝らせるのも悪い気がしたのでフォローをしてみた。
「昨日、金城が……うちの主将が寒咲に確認してて」
「確認?」
「もう、この前の彼女は来ないのか、って、何か苦労をかけたか、って……ま、お前は入部する気なかったんだからただの勘違いッショ」
「あ、あはは……」

 乾いた笑いを浮かべてしまった。確かに、互いに思い違いがあったとはいえ、罪悪感というものは生まれてくるものだ。それにうろ覚えではあるが、私が金城先輩に対面した時に、「ありがたいな」というコメントをもらっていたような気がする。
 それはやっぱり私の憶測通り、自転車競技部には人手が足りないのだろう。

「……私は、あまり自転車に詳しくないので……」
「………普通、はそうだな」
「同じ学年に兄がいるんですけど、ずっと二人して運動を関係ない所にいましたし……」
「………兄、か、俺と同じだな」

 私がちょっと自分語りしてるだけで続いている会話だった。よくもまあこんな語りが出るなと自嘲的になるが、そうじゃなかったら巻島先輩と無言が続くだけだろうから、今のこのテンションは丁度いいかもしれない。

「昨日、兄が、今泉くんとレース……してたんですけど」
「は」
「やっぱり駄目だったみたいで、こういうのは……」
「いやいやいや、ちょっと待つッショ!」

 まさか語りが中断されるとは思っていなかったので目を丸くした、巻島先輩は既に食べ終わっているし、あとはゴミを纏めるだけなのだろうが、私の言葉を流さずしっかりと聞いていたようだ。

「あの眼鏡がお前の兄貴なのか?!」
「………め、眼鏡はかけてますけど、同じかは……」
「昨日今泉と走ってた眼鏡はアイツだけッショ。小柄で短髪の」
「………多分それですかね……」

 一体何が問題なのかは分からないが、必死な巻島先輩とは裏腹に、私は冷静に答えた。まさかあのレースのことを彼が知っているかなんて分からなかったし、ここまで取り上げられるとは思っていなかった。
 どこか熱を感じるような巻島先輩の声だったが、私と目が合うと、パッと覚めたように自身の髪を指先でいじった。

「――――いや、まあ、俺は興味ないけど」
「そう、ですか……」
「ま、よく頑張ったって所だな。ママチャリでロードは抜けない。ドシロートなら尚更だ」
「…………」
「お、おお?っ俺は別にお前の兄貴を蔑んだ訳じゃないッショ!一般論っつーか……」

 客観的に見た坂道の評価はこうなのだろう。今まで好意的な意見しか聞いてなかったので、どこか安心するようで、寂しかった。私はなんてワガママなんだろう。
 黙ってしまった私に、巻島先輩はフォローを入れてくるが私はそれさえあまり上手く飲み込めなかった。

「俺は――」
「正論だと思います。兄はどちらかといえばそういう表舞台だから遠い所にいましたし、」
「………そういうことは言ってねえよ」

 巻島先輩は真っ直ぐに私を見た。立っている時はあまりに視線が交わらないことが多かったが、座っていることで、距離もいつもよりぐっと近くに感じる。

「今泉は、俺らはずっと自転車に命注いでるってだけッショ。それは自分で選んだ道だ。俺だって派手な場所からは遠いところにいる人種だ。ただ、自転車ってステージだけでは絶対に負けねえ」

 言っていることが分からない訳じゃない。だけど、私の中ではずっと、『坂道は負けて当たり前』と『坂道の何が分かるんだ』というこの二面性がぐるぐると駆け巡っている。
 けれどそれは誰かに認めて欲しい訳じゃあきっとない。私だけが坂道の良さをわかっていればいい、だなんてずっと思っていたのかもしれない。だからこそ、突然、自転車という知らない世界に足を踏み入れた坂道に対して、私はずっと戸惑いを感じているのだろう。

「……つまんねえ話したな」

 巻島先輩はそそくさと素早く昼に出たゴミを纏めた。何か言わなきゃ、と思うが、私の中にはあまりいい感情が芽生えてなくて、すぐには外聞いいような格好いい答えが出ない。

 だけど、

「羨ましいです」

 の、一言がすぐに出た。

「………羨ましい?」と、立ち上がってますます距離が離れた巻島先輩は復唱した。
「そうやって、一点に集中出来るものがあることが、凄いなって」

 気がつけば声に出していた。巻島先輩は、立ち上がった角度からまるで私を見下すように立ってはいるけれど、巻島先輩の雰囲気からか、あまり悪い気はしなかった。ここは地味な場所ではあるが、遠くからは様々な声が聴こえる。昼時だし、とても賑やかだ。ここの温度も、どこかその熱にまぎれてしまえばいいのに。
 わざわざこうやって、引き止めなくても良かったんじゃないのかな、とも思うが、喋りだした口は意外と止まらないようだ。

「凄く、眩しい、ですね」

 上手く笑えていたのかは分からないけれど、巻島先輩は吃驚したような顔をしていた。

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